2011年5月31日火曜日

サントリーニ島




このクルーズの一番人気、最後の寄港地サントリーニ島です。
断崖絶壁の上に町があります。
船着場から町まで上る方法には3種類あります。ケーブルカー(韓国とおなじ
呼び方ですね。日本でいうところのロープウェイ)、ロバ、徒歩です。
事前説明会では、ロバは危険なのでお勧めしません、と言っていましたが、
ここまで来たら、やっぱロバでしょう。

写真だと、のんきそうに見えますが、けっこうスリルがありました。
ロバにとってもハードなのか、ときどきよろけますし、ジグザグに折れ曲がる道の
曲がり角にさしかかるたびに、外側のポジションを取ろうと、ロバたちが
競争を始めます。

なぜか猛然と走りだしたり、喧嘩のようにかみ合ったりするのです。
壁に押し付けられたり、自分の足が並んだロバの腹にこすりつけられたり、
となりの乗り手の足とぶつかったり。
抜きつ抜かれつの大騒動です。

アメリカ人の女の子たち6、7人といっしょでした。ほとんど聞き取れませんが、
声をかけあったり笑ったり、レース気分で楽しんでいる様子。
曲がり角では、ときどきロバが脚を踏み外します。4本あるので転ぶことは
ありませんでしたが、ちょっとどきりとすることも。

20~25分ほどがかなり長く感じます。愉快でした。

サントリーニに船で近づいていく光景は感動的でした。

ショータイム

こんなショー(余興)をやってるんですよ。
これは「ミスアフロディテ」コンテストの模様です。
子どもを連れてこないというのが了解事項なのもうなづけます。



まず司会者の呼びかけに応じて、十数名の女性が舞台に上がります。
名前と出身国が紹介されます。日本人は4人でした。
2人ずつ名前を呼ばれて、セクシーウォークとポーズを披露します。
これが予選で、4人が残ります。ビデオはここからです。
(残念ながら日本人は全員予選落ちでした)
残った4人に、好きな俳優は誰ですか、という質問があり、
ジョージ・クルーニー、リチャード・ギア、トム・ハンクス、
最後は誰と言ってます?
俳優の名前があげられると、観客のなかからそっくりさんが
舞台にあがります。
決勝戦のゲームはごらんのとおりです。

舞台に上がるときは何も聞かされていなかったそうです。
欧米の人たちは少しは予想できてたのかな。
すばらしい美貌の持ち主もたくさんいましたが、そういう人たちは
なぜか舞台に上がりませんでしたね。

ここでクイズです。
優勝者は拍手による人気投票で決めるのですが、4人のなかで
もっとも人気があったのは誰でしょう?
決勝のゲームの順番でお答えください。
皆さんの投票をお待ちしております。

2011年5月29日日曜日

船の名前はルイス・マジェスティです

パトモス島からもどって、まずは入浴。午前中は広大なエフェソス遺跡を
歩き回ったので、汗をかきました。お湯につかりながら、Tシャツを洗濯。
洗濯といっても、シャンプーをつけて泡を立てからすすぐだけ。
きのうは靴下、おとといは下着を洗いました。
2週間の旅ですが、機内持ち込みの手荷物だけで済まそうとすると、
マメになるしかありません。

ここは迷わずバスタブつきのキャビンを洗濯、いえ選択して正解です。
むろんシャワーだけの部屋より、いくらかお高くなります。
しかしたいした差額ではありません。
案内によると客室の合計は731(定員は1800人)のうち、
バスタブを備えているキャビンは22室しかありません。
ようするに早い者勝ちです。

ツアーの人たちは旅行社が安く仕入れた団体向けのキャビンのようです。
元の部屋が団体割引になっていたのでは、差額を払っても風呂付の部屋に
してもらうのは無理でしょうね。

テンダーボートの整理券をもらう列に並んだとき、添乗員さんたち3人と
いっしょになったので、少し話をしました。
(船が接岸できない小さな港では沖に停泊して、テンダーボートで陸に
連れて行ってもらいます。一度に乗れるのは70人くらいから150人くらいまで、
先のボートに乗れば、それだけ早く上陸できます。
船主催のオプションツアーに参加する客が優先です。
一般客はそのあと。停泊時間は行き帰りを合わせて、4時間から5時間
くらいしかありません)

「エフェソス遺跡はどうでした? ガイドさんの日本語は大丈夫でしたか?」
添乗員の一人からたずねられました。
オプションツアーには、どの旅行会社のお客さんも混じっています。
エフェソスツアーには、この場にいなかったもう一人の添乗員さんが
代表でついて来ていました。

「とてもよく通じたし、楽しかったですよ」
「ときどきなに言ってるかわからない人がいるよね」
「遺跡のあと、革製品の工場とみやげ物屋の2件に連れて行かれたのが、ちょっと」
「2件ですんだらいいよ。3件のこともあるから」
「革製品のほうは、まずファッションショーを見せられるんです。
そのあと販売ですけど、ガイドのセクチュクが、私が交渉してあげますと言いながら、
真剣な顔で勧めるんですよ」
「やばいね。それ」
「お客さんに伝わるようじゃ困りますね」
「私もアルバイトでガイドをしていたことがあるから、気持ちはわかります。
でも、ガイドをしているときの愛想のいい顔と表情も雰囲気もまるでちがいますからね。
必死も必死というか、選挙に落選しそうな候補者くらい、余裕がなくなってましたね」

私も心のうちで、みんな買ってあげればいいのにと、無責任なことを思っていました。
買ったのは2組だけだったから、ひどく気落ちした顔をしていました。
もしかしたら、お店の人から「これからは中国語でも勉強したほうがいいんじゃないか」
くらいの皮肉は言われたかもしれません。

そういえば、ついてきた添乗員がガイドと顔を合わせてまず最初に、
「きょうはファッションショー行くの?」ときいていたのを思い出しました。
そのときは何のことかわからなかったけど、添乗員にも役得がありますからね。

「クルーズは普通の旅行より、添乗員さんたちのお仕事が楽なんじゃないですか」
とたずねると「そんなことは全然ありません」3人がそろって答えました。

「横並び志向というのかな。みんな同じじゃないと気がすまないんですよ、日本人は。
パンにまぶしたゴマの数まで同じにしないと文句を言われるって、
この前行ったレストランでは、マネージャーに笑われました」

話は変わりますが、船の中は食べ物が無料なので、どうしても食べ過ぎてしまいます。
船から下りたら、自然とダイエットになるとは思いますが。

クイズ


今朝は早起きしてトルコのクシャダス(クサダシ)に上陸して
エフェソス遺跡を見てきました。
ローマ時代の遺跡ですが、さすがに今回のクルーズの華といわれる
(あるツアーの添乗員さん談)だけあって、見ごたえがありました。

今、船はパトモス島の沖に停泊していて、私は島のインターネット
カフェにいます。

このクルーズには日本から4組のツアーが乗り合わせていて、
おかげで日本人スタッフによる合同説明会あり、日本語の船内新聞
まで発行されていて、大助かりです。

これがなければ、今回もドタバタが始まっていたでしょう。
スムーズにことが運びすぎて、もの足りないと言ったら、
贅沢すぎますが。

乗船するさいに私の前に並んでいた韓国人家族は大丈夫かな。
その後、顔を見かけておりません(なにしろ広いですし、
千人以上の乗客がいます)。
韓国語の船内アナウンスや新聞もないようなので、よけいな
お世話かもしれませんが、気がかりです。

ここで皆さんに質問です。私の船室はどれでしょう。
当てた方には豪華お土産を進呈できるかも。
上から何番目のデッキの左から何番目というふうに答えてください。
一番うえの人が立っている場所とその下のガラス窓の回廊は船室では
ありませんので、除外してください。
それでは皆さんのご応募をお待ちしております。

2011年5月28日土曜日

ドタバタ3





船の中ではインターネットがつながらなかったので、
ミコノス島のカフェで書いています。

バス停まで駆け出したのはいいのですが、駐車マナーの悪いこと。
歩道と歩道のあいだをふさぐようにして停めてあるので、
いちいちでこぼこの車道に出て、柵のすき間を抜けないと歩道に
もどって来られません。
ようやくバス停にたどり着いて、息をきらしてベンチに座り込むと
となりに腰かけていたテッサ(70歳)が声をかけてきた。
きれいな英語で、なにかお役に立てるかしら?と言うので、X96バスは
まだですか、とたずねると、まだのようね、という返事。
「やった!」
「どちらから?」「日本です」「もう20年もイギリスの
サウスハンプトンで暮らしていてね」「どなたかお子さんと?」と
いう会話をしているうちに、テッサのバスがやってきました。
こんなシーンどこかで見たな。
フォレスト・ガンプがベンチに腰かけていると、バスを待つ人たちが
入れ替わりに話しかけてくる。
私に話しかけてきたのは一人だけだけど、時間はどんどん過ぎていく。
もう18:20だぜ。
何かおかしくないか。
もうすぐ18:30。
もしかして、まずい状況じゃないですか?

話は変わります。
すっかりやられちゃいました。
蚊です。手にも顔にも5、6箇所。そのうえ一晩中物音が続いていたので
すっかり寝不足。なんだったんでしょうか。鉄製のドアが
開け閉めされるガチャーンという音とマージャン牌をかき混ぜる音の二重奏。
そしてカミナリ。
ここはいったいどこなんだ? 思わず笑ってしまいました。

朝食をとりに降りていくと、フロントにおばさんが一人。
あいさつをしても、ふんと顔をそむけました。
ダイニングにいるおばさんも同じくらい無愛想。
コンチネンタルの朝食なのに持ってくるのに10分。
コーヒーを待ちくたびれて席を立つ。
時間がないからと声をかけても、返事はむろん、顔さえ向けようともしない。

きのうのオヤジはいい奴でしたよ。
バス停からもどって「間に合った」と言うと、たいそう喜んでくれました。
少ないけどお礼させてほしい、と紙幣を渡そうとしても、
がんとして受け取りませんでした。

ちょっとさみしい気持ちでチェックアウトをすませ、ロビーで
8:30に迎えに来てくれるはずのシャトルサービスを待ちます。

来ません。
旅とはそういうものです。
人生そのものです。

通りを下っていけば、港はもう見えているではありませんか。
たいした荷物はありません。駆け出す必要もありません。
ゆるゆると歩いて行きましょう。
潮風が心地よいのですから。

2011年5月27日金曜日

ドタバタ2


泊まるはずだったホテル、予約サイトの口コミ評価が抜群で、しかも格安。
期待してたんですけどね。

とにかくタクシーに乗りました。
到着したホテルは、見かけからして格安の雰囲気がただよっています。
フロントにオヤジが一人座っていますが、ほかに人けはありません。
いかにもヒマそうだから、チェックインのついでに
「バスに置き忘れた帽子をとり戻したい」と言ってみます。

一度目はやる気があるような、ないような顔つき、おいおい聞き流さないでくれ。
もう一度お願いすると「トライだけね」と言って
どこかしらに電話をかけ始める。バス会社の担当部署をたらいまわしに
されている様子で、3箇所に電話をしてから、首を横にふる。
「部屋で待っていてくれ。もうちょっと頑張ってみるから」

なかなかいいオヤジではないか。
旧式のエレベータで4階へ。
ドアは手動の最大2人乗り。右手が降り口で、そちらにはドアもない。
建物の壁がむきだしなので、そこに手をついたまま動き出したりすると、
手のひらをすりむいてしまいますよ。
日本ではけっして見かけないタイプで、なかなか楽しいです。

そして部屋。せまいです。6畳ありません。
小さなすりガラスの窓の外の50センチ先には、となりの建物の壁がせまっています。
暗いので電気をつけるとさわさわするのは、羽虫たち。
蚊じゃないよね。
換気のためでしょうが、窓は閉めておいてほしかったです。

ベッドに腰かけて、しばし沈黙。Easyjetといいホテルといい、格安づくめの
旅ですから、まあこんなものでしょう。
成田-フランクフルトはJALでしたが、特典航空券なので、なにより格安。
フランクフルト-ベルリンはAirBerlinという格安航空会社。
どちらも悪くなかったんだけどな、とため息。
JAL機内ではアテンダントさんと話もはずんで、メッセージカードをもらったし。

電話が鳴りました。
「帽子があったそうだ。取りに行くか?」
「どこでも行きまっせ」
帽子を乗せたまま終点で折り返して、バスが空港に向かっているところだ。
DIMOTIKOのバス停に到着するのが18:10だから、今から走れば追いつけるぞ。

マジっすか。
元のホテルからも、タクシーで5分ほど遠ざかってるんですけど。

「走れ! グッドラック」
「タクシーを…… わかりました。走ります」
20代だったら、せめて30代だったら、どうってことはありませんけどね。
初老の腰痛もち。
正直きつい。でも旅とはこういうもの。
駆け出すことにしました。

またもやドタバタ

ギリシャのホテルでこれを書いてます。
無事到着おめでとう!なのですが、またやっちゃいました。

その前に本当はEasyjetというベルリンから乗ったLCC(格安航空会社)のことを
書いておきたい……でも飛行機ネタに興味のある方はあまりいないでしょうね。
パスします。

アテネ空港でピレウス(アテネ郊外の港町)行きのバスに乗車。
乗車口のそばでタバコをすっている運転手らしき男に、DIMOTIKOで降りるから
着いたら教えてほしいと頼むと、まかせておけと陽気な南欧人らしいドンと来いの
身振りで応えてくれました。
でも発車時刻になって運転席に座ったのは別人。2台が連結したオムニバスは
けっこう混んでいて、さっきの男の姿は見あたりません。

ところどころに停車しながらも、かなりの速度で走り続けるはバスは、停留所の
アナウンスもなければ、それらしき表示もありません。
1時間ほどでピレウス市内に入った様子なので、信号で停車したさいに運転手に
話しかけると「次だよ」と教えてくれました。
降りる支度をしていると、ふいに背後から声が。
さっきの男でした。
「まだ早い、DIMOTIKOはまだまだ」というようなことを言っています。

結果的にDIMOTIKOの近辺で降りることができたようです。
なにしろ男もいっしょに降りてきて、道案内をかってでるというので、
バス停の名前を確認する余裕もありません。
そこからは思い切ってはしょって、なんとかホテルに到着。

そこで帽子をバスに置き忘れてしまったのに気がつきました。
レセプションでバス会社に電話してほしい頼む私をさえぎって、
受付のお姉さんが言うには「出立予定だった団体が留まることになったので
あなたの部屋はありません」
「オーバーブッキングでしょ。一人旅の私より、いい客が見つかったという
わけですね」
「提携ホテルに部屋を確保しました。タクシーを呼びます」
私とかわらないくらいヘタな英語。あんた何者?

長くなったので稿をあらためます。

2011年5月25日水曜日

24日に成田を発ち、フランクフルト経由でベルリンに到着。

明日、ベルリンのシェーネフェルト空港からアテネに向かう予定です。
ところがテレビをつけると、アイスランドの火山噴火のせいで、
ブレーメン、ハンブルグの空港は今朝から閉鎖、ベルリンは午前11時から
閉鎖になると、ニュースで言っています。(今は9時半)
明日の朝、飛行機が飛ぶかどうか、かなり微妙になってきました。

明日アテネに到着できないと、あさって早朝に出港するクルーズ船に
乗れなくなります。
旅にはハプニングがつきもので、それが楽しみでもあるのですが、
どうなることやら。

きょうは一日、ベルリンをぶらぶらしようと思っていたのですが、
南のミュンヘンに列車で移動して、そこからアテネ行きに乗るべきか、
などと頭を悩ませているところです。

写真は今朝の朝食です。

2011年5月5日木曜日

「愛しきソナ」を観て

横浜で上映中のドキュメンタリー映画「愛しきソナ」を観た。
場内で観客を数えると、平日の午後ながら30人ほどだった。60代と見受けられる男女の姿が中心である。

「ソナ」は、帰国事業で北朝鮮に渡ったヤン・ヨンヒ監督の兄の娘、つまり姪である。当時、朝鮮総連の幹部でもあった父親の勧めもあり、3人の兄たちが帰還運動に応じた。その経緯については、前作の「ディア・ピョンヤン」で触れられていたような気がするが、本作では語られることはない。しかしピョンヤンを訪れた父親と長兄が並んで散歩する姿に、二人の思いが凝縮されている。今さらそのことに触れることはしない、しかし二人とも心の中では語り続けているにちがいない、その切なさが伝わってくる。

ピョンヤンの住宅街の幅広い歩道と画一的に建てられた集合住宅眺めは、私がかつて暮らしていた東ドイツの街並みに似ていてなつかしい。日本製の商品が並んだ外貨ショップの様子もかつての東ドイツにそっくりだ。二十数年前のあの雰囲気を味わいにピョンヤンに行ってみようか、という思いがよぎる。

余談になるが、東ドイツを訪問中の金日成主席がEKO製鉄コンビナートの視察に来られたおり、至近距離で遭遇してしまった経験がある。

画面を見つめながらそんなことを思い出していたが、同時に「この映画を今観ることの意味は何なのか?」という疑問で、落ちつかない気分が続いていた。
上映が始まって10分ほどで、場内の数箇所でいびきが聞こえはじめた。20分ほどたったあたりで、おなじ列に座っていた3人組の男性がひそひそ話をはじめ、そろって席を立った。

ソナの家庭は北朝鮮にあっては特権階級であろう。自家用車をもち、客をもてなすためにケータリングサービスまで使って食卓にごちそうを並べる暮らしが、平均的な庶民のものだとは思えない。金日成総合大学に入学したと、ソナは映画の最後に手紙で誇らしげに知らせてきた。

この特権階級の暮らしぶりを目にしていると、ひと頃さんざんテレビで目にした、餓える人々、危険をおかして国境を越えようとする人々の姿が二重写しになる。泥にまみれた路上で食べ物をあさる孤児たちは、助かりようがないほど栄養失調に侵されていて、ついには横たわって息絶えても、行きかう人々は見向きもしない。こうした隠し撮りされた数々の映像は鮮烈だ。

「あなたがたは、彼らのことをどう思っているのか」とついつい映画のなかの人物に問いかけてしまいたくなる。しかしその質問は、自分自身に返ってくる問いである。だから居心地がわるいのだ。

悲惨な光景を目にすると、国民を塗炭の苦しみに追いやりながら権力にしがみついている独裁者への嫌悪、虐げられた人々への同情といった感情で胸がいっぱいになる。そのせいで、自分が特権的立場にあることを自覚せずにすむ。気づかないふりをすることができる。

それに対し一見平和な家庭の様子を見ていると、落ち着かない気持ちになる。むろん多くの国民が悲惨な境遇にあることに目をつぶって、自分の幸せを守るしかない境遇も楽なものではあるまい。体制を批判することが、即破滅を意味する社会で、彼らの選択肢は多くない。

それに対し、3.11の大災害を目の前にした私たちには、より多くの選択肢があるはずだ。しかしわずかな金額を義捐金箱に入れることで、良心の呵責から逃れている自分という存在がいる。放射能の被害者であることに免罪符を求めてさえいる自分がいる。映画を観ながら、そこに映し出された人々に何かを問いかけようとするたびに、矮小な自分をふり返らざるを得ない。この居心地の悪さは映画を観終わって24時間たった今も続いている。