2011年6月16日木曜日

「ソウルのバングラデシュ人」の感想

大阪、名古屋に続き、東京で開催されている「真!韓国映画祭2011」で「ソウルのバングラデシュ人」を観た。
バングラデシュ人の出稼ぎ労働者カリムは賃金の不払いのせいで仕送りができず、故国の家族と断絶のせとぎわにある。カリムはコンビニで韓国人どうしの喧嘩の仲裁に入ったばかりに警察署に連行され、濡れ衣をきせられたあげく酔っ払った一方の当事者から「お前たちのせいで仕事がない」という言葉を投げかけられる。女子高生ミンソの母親の恋人も失業中。ミンソが夏休みに英語塾に通う月謝代ほしさにカリムの財布を持ち逃げしようとしたのが二人の出会いである。ミンソはバイト先でトラブルをおこし警察署でカリムと再開する。彼女はその後、風俗店でアルバイトを始める。

導入部のあらましを書き留めるとこんな具合だ。カリムが好青年なのにたいし、ミンソはおおいに問題がありそうに見える。韓国人の外国人労働者にたいする差別意識があらわれる描写のなかで、ミンソもまた偏見の持ち主として描かれる。カリムがバスの中で席をあけて座らせようとするのを無視し、並んで歩くのをいやがって3メートル離れて後からついてくるように言うほどである。(物語が進んで二人が絆を深めるにつれて、カリムの強制送還を避けるため、ミンソは結婚まで口にするようになるのだが)

社会のアウトサイダーと気のつよい少女との出会い。緊張感を和らげるアイロニカルな笑いと、切ない余韻を残す結末。どこかで見たスタイルである。カリムに狼の皮をかぶらせて人物像に深みをもたせ、画面に緊張感を加えればヤン・イクチュン監督の「息もできない」ではないか。

韓国映画に登場する「気のつよい少女」は魅力的である。
この作品の舞台を日本に置き換えてみるとしよう。韓国社会と日本社会には共通点が多い。ここに描かれているアジアからの出稼ぎ労働者を見下し、白人には媚びる性向などは日本人にもそのまま当てはまる。受験競争の激しさは韓国ほどではないものの、教育の機会と経済格差の問題は日本でも表面化している。それでは「気のつよい少女」ミンソを登場させて、リアリティは得られるだろうか。

私の想像の範囲ではかなり違和感がある。
極端な気のつよさを観客に納得させるには、ツッパリ系不良少女にしてしまうか、男を手玉にとるほどの色気または才気の持ち主にしてしまうか。あるいは、なぜかやたらと腕力が強い「ラブファイト」の亜紀、「ごくせん」のヤンクミのようなキャラにしてしまうほかないのではないだろうか。

つまりただの女子高生ではなく、強気の拠りどころとなる特性を備えている必要がある(ヒロインを引き立てる可愛げのない女という設定であれば別だ)。しかしミンソや「息もできない」のヨニには、そういう持ち味が付加されていない。どこにでもいる高校生である。とりたてて腕力もないのに、見ず知らずの男(ヤクザや外国人)にたいして一歩もひかない。殴られたり引き倒されたりした後ですら、おびえた表情を見せない。

「あなた、自分のやっていることがわかってるの!?」のように居丈高な物言いをして、倫理観で優位に立とうともしない。
ただ気質として気がつよいだけの少女が、それだけで魅力的な存在だ。

よけいな拠りどころを持たない「気のつよさ」が魅力的なのは、これらの作品を撮っている監督たちが、そういう少女を魅力的だと思っているからだろう。
ストーリーが展開するにつれて、少女は別の面を見せる。傷ついた内面から暖かさややさしさ、孤独や正義感などがにじみでる。そして男女は惹かれあう。そこに着目して「気の強い」女性が「男に都合のよい」女性へ変化したと見なせば、いささかジェンダー的に問題視するような捉えかたが可能かもしれない。

しかしそういう見方はとりたくない。少女らは男の意思にしたがって「変身」するのではない。関係性が深まるにつれて内面に変化が見られるというなら、男のほうもお互いさまである。それ以前に一本気な性格が、それだけで魅力的に描かれている。それは女性に「可愛げ」が求められていることへの反乱であり、そこには損得を超えた無鉄砲さにたいする爽快感がある。
こういう印象をもつのは日本人特有のものだろうか。男性特有のものだろうか。あるいは私だけの特殊な感想であろうか。
ミンソやヨニは韓国の人たち、女性たちの目には、どのように映るのだろうか。そのあたりを知りたいところだが、それはさておき、「気のつよい少女」が映像のなかの韓国にしっくり馴染んでいるのはまちがいない。そこに韓国らしさがあると観るものを納得させるだけのものがある。画面から伝わってくる韓国社会の魅力がある。

2011年5月5日木曜日

「愛しきソナ」を観て

横浜で上映中のドキュメンタリー映画「愛しきソナ」を観た。
場内で観客を数えると、平日の午後ながら30人ほどだった。60代と見受けられる男女の姿が中心である。

「ソナ」は、帰国事業で北朝鮮に渡ったヤン・ヨンヒ監督の兄の娘、つまり姪である。当時、朝鮮総連の幹部でもあった父親の勧めもあり、3人の兄たちが帰還運動に応じた。その経緯については、前作の「ディア・ピョンヤン」で触れられていたような気がするが、本作では語られることはない。しかしピョンヤンを訪れた父親と長兄が並んで散歩する姿に、二人の思いが凝縮されている。今さらそのことに触れることはしない、しかし二人とも心の中では語り続けているにちがいない、その切なさが伝わってくる。

ピョンヤンの住宅街の幅広い歩道と画一的に建てられた集合住宅眺めは、私がかつて暮らしていた東ドイツの街並みに似ていてなつかしい。日本製の商品が並んだ外貨ショップの様子もかつての東ドイツにそっくりだ。二十数年前のあの雰囲気を味わいにピョンヤンに行ってみようか、という思いがよぎる。

余談になるが、東ドイツを訪問中の金日成主席がEKO製鉄コンビナートの視察に来られたおり、至近距離で遭遇してしまった経験がある。

画面を見つめながらそんなことを思い出していたが、同時に「この映画を今観ることの意味は何なのか?」という疑問で、落ちつかない気分が続いていた。
上映が始まって10分ほどで、場内の数箇所でいびきが聞こえはじめた。20分ほどたったあたりで、おなじ列に座っていた3人組の男性がひそひそ話をはじめ、そろって席を立った。

ソナの家庭は北朝鮮にあっては特権階級であろう。自家用車をもち、客をもてなすためにケータリングサービスまで使って食卓にごちそうを並べる暮らしが、平均的な庶民のものだとは思えない。金日成総合大学に入学したと、ソナは映画の最後に手紙で誇らしげに知らせてきた。

この特権階級の暮らしぶりを目にしていると、ひと頃さんざんテレビで目にした、餓える人々、危険をおかして国境を越えようとする人々の姿が二重写しになる。泥にまみれた路上で食べ物をあさる孤児たちは、助かりようがないほど栄養失調に侵されていて、ついには横たわって息絶えても、行きかう人々は見向きもしない。こうした隠し撮りされた数々の映像は鮮烈だ。

「あなたがたは、彼らのことをどう思っているのか」とついつい映画のなかの人物に問いかけてしまいたくなる。しかしその質問は、自分自身に返ってくる問いである。だから居心地がわるいのだ。

悲惨な光景を目にすると、国民を塗炭の苦しみに追いやりながら権力にしがみついている独裁者への嫌悪、虐げられた人々への同情といった感情で胸がいっぱいになる。そのせいで、自分が特権的立場にあることを自覚せずにすむ。気づかないふりをすることができる。

それに対し一見平和な家庭の様子を見ていると、落ち着かない気持ちになる。むろん多くの国民が悲惨な境遇にあることに目をつぶって、自分の幸せを守るしかない境遇も楽なものではあるまい。体制を批判することが、即破滅を意味する社会で、彼らの選択肢は多くない。

それに対し、3.11の大災害を目の前にした私たちには、より多くの選択肢があるはずだ。しかしわずかな金額を義捐金箱に入れることで、良心の呵責から逃れている自分という存在がいる。放射能の被害者であることに免罪符を求めてさえいる自分がいる。映画を観ながら、そこに映し出された人々に何かを問いかけようとするたびに、矮小な自分をふり返らざるを得ない。この居心地の悪さは映画を観終わって24時間たった今も続いている。

2011年2月16日水曜日

『息もできない』観てきたよ




 評判になっていることも知らず、昨年3月の日本公開から1年近くもたって観てきました。「すでにDVDが発売されてなんて! レンタルできたんだ」いやいや映画館で観ることができて、よかったですよ。電車賃とチケット代を使っても後悔なし。観てちょんまげ!観てちょんまげ!観てちょんまげ!と3回くり返しておきましょう。

 なにしろキネマ旬報の「2010ベスト10」で、外国映画部門の第1位に選出されたくらいですから、映画ファンの皆さんなら、とっくに観てますよね。「今ごろなに言ってんだ」のブーイングですね。

 私なんかが感想を言ってもはじまりませんが、とにかく興奮したので、となりのアンちゃんやらジイちゃんやらと盛り上がってしまいました。右隣りに座っていた、白髪で年齢の割りにがっちりした体格にモスグリーンのフードつき防寒着をはおっていた熊井さん。左隣りは黒い革ジャン姿、座席に浅く腰かけて、組んだ脚をつきだした一見チンピラ風の内田さん。(もちろん仮名です)座席の前後の間隔がせまいのがあいにくでしたね。窮屈さを意に介さないという面構えが素敵でしたよ。チンピラというのはもちろん冗談ですよ。ちょっと柄がわるかっただけ。映画好きの気にいいアンちゃんです。

  終映後、ロビーにでてチラシをあさっていると、ベンチに腰かけている内田さんと目が合っちゃいました。「ごめんなさい」と言いかけましたが、タバコをくわえ、火をつけるでもなく物思いにふけっている様子。となりに腰をおろし、何気なさをよそおって「サンフンに似てると言われませんか」とつぶやいてみました。内田さんはこちらをチラ見してから「씹할 놈아」とサンフンの口真似をして答えてくれました。
 思わずニヤリとしそうになるのをこらえて「突然、あんなふうに無防備になれるものだろうか」とひとりごちてみました。
 「いい歳をしていつまでも子どものままでいると、いざ大人になろうとするとき、ひどい目にあうと決まってるんだよ」内田さんお声が返ってきます。ことばを返せないでいると「大人になって麻疹にかかるようなもんだ」と続けます。
 「ヨニと出会うまでサンフンは恋愛経験もないよな、あれじゃ。ヨニともプラトニックだし、母と妹を失った事件にみまわれた時点で、成長を拒否してしまったんだね」
 「씹할 놈아」内田氏が吐き捨てる。
 「憎んでいるつもりだったのに、手首を切った瀕死の父親を病院までおぶって走る。なんとしても命を助けたいと必死になるよね」
 「親父のところに行っては、さんざん殴る蹴るの暴行を加えているのに、親父は姿をあらわすたびにぴんぴんしてる。本気でぼこられていたら、アザやタンコブじゃすむまい。しかもそれすらない。暴力のプロだからこそ加減ができる。意識的だったかどうかは別としてもな」
 「さすがですね。そういうお仕事だったんですか」
 「씹할 놈아」内田氏が口の端をゆがませて笑う。
 「『ブリキの太鼓』を思い出すな」と私。
 「オスカルか」
 「成長を止めているあいだは無敵だったのに、成長しようと決意したとたん、致命的な一発をくらってしまう」
 「窮屈なよろいを脱ぎ捨てちまいたいが、いきがってるだけに、もろさをさらけ出したら――」
 「やくざ映画ですかね」
 「サンフンがやくざに成れていればな。やくざは大人だよ。暴力なんてものは、ぜいたくと女を手に入れる手段、面子を保つための道具だと、割り切っていられる」

 「ちょっといいかい」
 ふいに割り込んできたのが熊井氏でした。ベンチの空いた席に荷物をおいて、自分は立ったまま。
 「センチメンタルになるものいいけど、家族が暴力の再生産の装置になっている。そのことを真剣に考えてほしいな。傷つきやすさが、むしろ暴力を生み出す原動力になっている」
 「씹할 놈아」
 思わずそう言ってしまったのは筆者だった。
 「サンフンは女を殴りつけている男を見ると、たまらなくなって殴りかかる。そのくせ自分もヨニを殴りつけたりする。なぜだと思う?」
 熊井氏はかまわず教師めいた口調で言った。
 「ヨニを殴ったのは反射的に手が出ただけで、殴るつもりじゃなかったし、悪いと思ったからこそ、意識をとりもどすまで、そばで待ってたじゃないですか」
いくらかどぎまぎしながら答えます。
 「二人はなんで惹かれあったんだ? たがいの淋しさや悲しみが魂にふれ合ったとか言わんでくれよ」

 「チンピラはもてるんすよ」内田さんはあくまでもまじめな声。
 「ヨニはおじけづくでもなく、憎しみを露わにするわけでもない。自然体で向き合ってくれる。それがサンフンには新鮮だったでしょうね」
 「怒りややるせなさを暴力に変換するのは、いちばん簡単だけど。愛にも変えられるんだぜ」
 内田さん、自分で言って照れないでね。
 「変換か。おれの若い時分は、部活で性欲を解消しろと言われたもんだ」熊井氏がぼそとつぶやいた。「サンフンは究極の草食男子だったかもしれんな」

 とりとめのない話はこれくらいにしましょう。『息もできない』が観た人だれもが、何かを言いたくなる映画なのは請け合いです。「最低の親父」とは無縁の家庭に育ったキミやボクでも、暴力への衝動を感じることはありますよね。そうでなければゲームやアニメ、映画やドラマの世界にあれほどまで暴力が充満しているはずないでしょう。本能に組み込まれているのか、共同体としての記憶なのか、とにかく我々は暴力が埋め込まれた地平線の上を裸足で走っている(ちょっとイメージしてね)のです。乾いた大地はときおりぬかるみに変わります。なのに暴力に絡めとられる怖れにおののくことを忘れてしまってはいないだろうか。忘れたふりをしている私たちは「씹할 놈아」とののしられて、ようやく何か大切なものを思い出すのではないかな。なんてカッコつけてみました、恥ずかし。

2010年12月22日水曜日

ESG

時事的な話題にそれほど関心があるほうではないので、Yahooトピックスを読み流してしまっていたが、英字新聞メルマガから配信された「ノーベル平和賞授与式、劉氏欠席のまま挙行」という記事(日本語の訳つきね)を読んでいるうちに思い出した。

「劉氏ばかりか、奥さんまで授与式に出席できないよう軟禁するなんて、みっともないことをするものだ。やっぱりあの国は……」などと、ありがちな感想は2ちゃんにまかせておくとして、それでも日本に生まれてよかったね、などと、いくぶん安心している自分がいたりもするのだが、はてと何かしらひっかかるので、記憶の糸をたぐると、そうそう、こんなことがあったな、というのは25年も前のことであるが、マールブルクにいたころ、あれはたしかESGの集会場でのこと――

ESGというのはEvangelische Studenten Gemeindeの略で、私が一年ほど暮らしていた学生寮の名称である。英単語からの推測で、アメリカにいる超保守の一派と混同されそうだが、ドイツではカトリックに対するプロテスタントのことを、一般的に「Evangelisch」と呼んでいる。無宗教の私がなんでプロテスタントの学生寮にいたかの説明は割愛するとして、韓国からやってきた神学生のSとそこで知り合い、その後長い付き合いになるので、なつかしい場所だ。

Sもいっしょだったはずだが、ある晩、日本からのゲストを招いての集まりがあった。部落開放同盟の、名前は加藤さんだったような気がするが、大阪出身の方だったはずだ、ボンで開かれるおそらくは差別にかかわるシンポジウムにでも参加するためにドイツに来られていたのではないか。マールブルクを訪問されたのはそのついでだったと記憶している。

中学一年のときに今井正監督の「橋のない川」を見て、部落差別というものの存在を知り衝撃をうけた体験があるので、むろん私も出席した。フォーラムが終わってから町へ出て、あるいは翌日だっただろうか、日本人学生の誰かの部屋だったような気がする、加藤さんから話を聞いた。

日本の外務省が加藤さんを入国させないよう、ドイツ当局に働きかけたので、ずっと入国許可がおりなかった。「反社会的な人物」というレッテルを貼られたのだろうが、いろいろな人の助けでようやくドイツ当局の誤解がとけて、ぎりぎりで出発できた。
おそらく役人たちからすれば、日本の「恥」を外国にさらしたくないという「愛国心」から職務を遂行したまでのことなのだろう。ボンで行われたシンポジウムのレセプションにも、こういう役人の同類がいて、ある日本人の大学教授はドイツ人たちに「日本に差別が残っているというはウソだ」とまくしたてていた。訳してもらって知ったのだけど、なんとも言えない気分だね。

というような内容だった。
どこの国にも差別や社会問題があるし、どこの国にも「臭い物にふた」をしたがる人間はいる。都合の悪いことを隠そうとすればするほど、中は膿んでいき、傷口が広がりかねないにもかかわらず。今回のノーベル平和賞にたいする中国政府の反応とその結果がよい見本ではないか。中国政府のヒステリックな反応、ノルウェーを恫喝し、各国に授与式へ欠席の圧力をかける、によって、劉氏の受賞の正当性を自らが立証してしまった。

国内の締め付けはともかくとして、海外に対してはソフトな対応をして、劉氏夫妻を授与式に送りだして、人権に対する配慮もこれだけできるんですよ、とアピールしたほうが、よほど国益にかなっただろう。いずれは民主化を進めざるを得ないことは明らかなのだから、はるかな道筋であっても、あのとき検討を始めておけばよかったと、政府が倒れる間際に後悔することになるかもしれない。

などと、他人のことについて立派なことを言うのはたやすいが、わが身をふり返るとエラそうなことを口にするのは赤面ものである。わりと自分の失敗や欠点をさらけだすは気にならないほうだが、それでも誰にも知られたくないことはあるもので、そこに触れられると逆上しかねないのもわからなくはない。
ESGでもある出来事があったが、ブログに書いたりできるものではないんだな、やっぱ。

2010年11月10日水曜日

モンブラン

友人がいないと公言している私だが、先週、32年ぶりに旧友と再会した。

相続した家の売却の件で帰省したおりに、高知大学勤務のNさん(阪堂先生のNHKラジオ講座のファンでコリ文まで訪ねてきてくれた)が、大学で同僚のTが私の昔なじみと知って、いっしょに食事でもと誘ってくれたのだ。

Tは追手前高に通っていたころの同級生で、いわゆる悪友である。
悪友といっても、授業をさぼって喫茶店にたむろし、雀荘にしけこんだくらいのもので、悪事をはたらいたことはない(記憶ちがいでなければ)。
二人で九州一周の弥次喜多道中という極めつけの思い出もある。

待ち合わせの店にあらわれたTが、学生時代と変わらない風貌であるわけはないが、頭を坊主刈りにしているとは予想していなかった。
とはいえ、かつての面影がのこっている。
いや、それどころではない。どこからどこまでもちっとも変わっていない。
しゃべり方といい、笑うときのでかい口といい、昔のままだ。

よく見れば歯にタバコのヤニがこびり付いているかもしれない。
目尻にしわがあるかもしれない。
そんなものは何でもない。
30年ぶりであっても、そばにいて少しも気をつかわずにいられるが、なによりTらしいところだ。
腹を立てることもあれば、欲もあるだろうが、それが周囲のものにとって脅威ではなく、むしろ人間味と感じられるような得な性分だ。
職場でのあだ名がドラえもんと聞いて、なるほどと思った。

「大学がええがは、プールや体育館、野球場が使い放題のところかのう」
「Tさんほど利用しゆう人は、ほかにおらんきね」
「最近はゴルフを始めたがよ」
「たまるか」
「Tさんはこれで、あんがい教育パパながよ」
「そりゃないろう」
Nさんが追手前の後輩だからと言って連れてきたKさんもまじえ、かつおのタタキを肴に盛り上がる。

「あのころも、ほんとに何があってもキレたりせん男でなあ」
とNさんに話していると「あのころはよ」とTが口をはさむ。
山あいの村をでて下宿暮らしを始めたばかりのTには、癖のある友人たちのやることなすことが刺激的で、ついていくだけで精一杯だった、というのが言い分である。
「こんな変人もおるし」というのは私のこと。

仕事にも満足、嫁さん息子娘たちにも恵まれているうえ、健康も申し分なし。大豊で暮らすご両親も健在である。
「悩みなんか、ないろう? あるかえ」
「そんなにバカにせんかて。そうじゃのう。……ないな」

この歳になって、こんな能天気な男がいてよいものだろうか。
こう見えて、ひそかに背徳の趣味にふけっているのではないか。はたまた不倫をしているとか。ひねくれものの私は、つい勘ぐりたくなってしまう。
しかしTの笑顔を見ると、まあ一人くらいはこんな男がいてもいいか、と苦笑いするしかない。

その晩、ホテルのベッドで夢を見た。
「困っちゅうがよ。もう首をくくるしかないき」
Tの坊主頭にしわが寄っている。
「酒でも呑んで忘れることじゃ」
さっきから話を聞いている私は、少しも深刻な悩みとは受け取っていないようだった。
「ほかにしようがないのう」
Tも観念したように笑い、腹のポケットから焼酎の瓶を取り出す。
「お前は何がええ」
「ほならドンペリでももらおうか」

雑魚寝していた私は、明け方近くに、いやな胸騒ぎにおそわれて目をさました。
目をこらして部屋のなかを見渡すが、Tの姿はない。
部屋という部屋、布団部屋から便所まで探すが、どこにもいない。
縁側の雨戸の隙間の向こうに人影が。
外にとび出すと、Tがクスノキに寄りかかってタバコをふかしている。

「おどかすなや」
「見てみい」

見下ろす谷には、もやがかかっている。ようやく白々と向かいの山の稜線が
浮かび上がってくる。
そのあたりを大勢の人が列をなして登っている。

「あの人らにも悩みがあるけんな」
「けんど、なーんも見えんな」
村夫子然とした姿にいっそう磨きがかかったTが、遠くを見つめる目をして言った。

2010年8月16日月曜日

映画『ANPO』

六本木の森美術館で映画『ANPO』を観た。
アート作品をとおして60年安保闘争に出会ったアメリカ人の監督が、アート紹介と制作者へのインタビューという手法で描き出す安保と50年を経た日米関係の現状は、見ごたえがあった。監督の心の動きを追体験していると錯覚しかねないほどだった。懐古趣味ではなく、歴史のどこかに居場所を見つけようという試みでもない。まさに現在と向き合うための手ごたえを感じさせてくれる作品だ。

監督のリンダ・ホーグランドさんは、日本で生まれ育ったアメリカ人である。60年代に山口と愛媛で公立学校に通っていたそうだ。と、ここまで書いてから、あんがいご近所さんだったり――と軽い気持ちでネットを検索してみると、予感が的中した。あるインタビュー記事によると、映画を自分にとって特別なものと認識したのは、小学6年生のとき松山で観た今井正監督の「橋のない川」だった、とある。私が「橋のない川」を観たのは、中学1年のときだった。そこに描かれた理不尽な差別に衝撃をうけた。恥ずかしい言い方だが、社会正義にめざめた。まさかおなじ町に住むアメリカ人の少女が、似たような体験をしていたとは。

「橋のない川」を観に行ったのは、学芸委員として、学年で団体鑑賞する映画を選ぶための下見だった。私は授業を休む許可を得ていたものの、友人の金田君を「いっしょに観に行こう」と勝手に連れ出したのがばれて、教師にこっぴどく叱られたことまで、40年ぶりに思い出してしまった(恥多き人生である)。

その日、場内に金髪の少女がいたかどうかは覚えていないが、アメリカ人の姉妹のうわさは耳にした覚えがある。街で白人の少女を見かけた記憶もある。当時、あの町にほかにアメリカ人一家が暮らしていたという話は聞かない。おそらく彼女か姉妹とすれちがったことがあるわけだ。

おなじ時期におなじ町で暮らしていた者として、ホーグランド監督が日本人の集団のなかにあって、どういう偏見と好奇心に晒されて学校生活を送っていたかは、容易に想像がつく。子どものころの体験が、日米関係のあり方に対する鋭敏な感覚を育んだにちがいない。

映画『ANPO』に話をもどすと、画面に映しだされるアート作品が魅力的なので、アートのもつ力に感じ入った。しかしながら我が身を顧みるに、映画で紹介されたアート作品の展覧会がどこかで開かれていて、私がそこに足を運んだとする。もしこの映画を観る前に、アートの実物と向かい合ったとして、映画ほどの感銘をおぼえただろうか。興味深く眺めるにはちがいないが、「こんな時代」「あんな時代」のひきだしの一つに感想をしまいこんで、それっきりにしてしまいそうだ。

映像上に複製されたアートが、実物以上に力をもつこともあり得る。場面を組み合わせ、音楽を入れ、言葉の力も借りる、これらを総合して作品を創りあげたホーグランド監督の映像作家としての力量に敬服するばかりだ。

私といえば、普天間基地の問題がメディアをにぎわすと、憤慨してみたりはするものの、日米関係のあり方が本質的に変化するなどとは期待していない。鈍感である。映像を目の前に突きつけられてようやく、想像力の貧困と、他者への共感を欠く自分というものを、あらためて認識させられた。

2010年8月11日水曜日

ドキュメンタリー

このブログのタイトル「違和感なしには生きられない」は、15年前にビデオで撮ったドキュメンタリのタイトルです。
ビデオそのものは、NHKのBS2で放送してもらって以来、見返すことがありませんでした。
最近になって、趣味を復活させようと「デジタルムービーワークショップ」なるものに通っています。
そこで古いVHSテープを引っ張りだしてきて、再生してみました。

テープの保存状態もよくないので、まともに再生できないのではと心配しましたが、なんとか見られます。せっかくの家族の記念なので、デジタル化しておくことにしました。
お暇でしたら、見てやってください。



順玉さんも若かったですね。


長くて申し訳ありません。

2010年7月29日木曜日

自己紹介

昨日は、UPLINKが主催する「デジタルビデオ講座」の1回目だった。
二人一組になって、自己紹介をたがいに撮影しあい、それから大画面のTVに映して全員で鑑賞した。

以前、「カルチャセンター運営」ワークショップに参加したときは、テーブルに向かい合った同士が、相手の似顔絵を描き、グループ全員に見せながら、他己紹介(推測をまじえ、印象だけで相手の紹介をする)をおこなった。「じつはこの方には、○○というとんでもない特技がありまして」とか「こう見えても、奥さんがすごい美人なんです」とか、けっこういい加減なことを言いあうので、参加者の緊張がほぐれて、すぐにいい感じの雰囲気になったのを思い出した。

自己紹介を撮影しあうというのは、撮る側はカメラマンであると同時に監督であって、どう演出するか任されている。そういう意味で、ある種の「他己紹介」と言えないこともない。楽しいひと時をすごすことができた。

渋谷まで来るのに、横浜で東横線の特急に乗った。うまい具合に座れたが、菊名でとなりの席が空くと、三人組のひとりが座り、かなりの大声でおしゃべりを始めた。男性一人、女性二人の、男性が当然のように座ったので、女性たちはすぐに降りるのだろうと思っていたが、武蔵小杉、自由が丘と来ても降りる気配がない。

「そもそもアンケートが水曜か木曜しか選択肢がないんだから」
「なぜか水曜なんだよね。土日とかないんだよ、けっきょく」
「京都のステージ、おぼえてる?」

聞きたくなくても聞こえてくる話をつなげると、これから、あるバンドのライブに行くところらしい。なかでもマサ氏に話題が集中している。

「あのときは、マサも意識しすぎだったよね。目を合わせてくれた?」
「とりバンでそんな意識するわけないじゃん。メリットないもん」
「おれは最初と最後に目があったな」
「うそ、私が目を合わそうとすると避けるのよ」

あまりにうるさいので「もうちょっと静かにできませんか」とのどまで出かかった。
むろん小心者の私はがまんする。

「最近、吹いてるときの腰の動きがさあ」
「変わったね。上下してるよね」
「意識してたら、できないしょ。無我の境地か」
「いえいえ、あれでさあ」
「曲が終わったあとの表情ね。わかってますって」
「ものうげな……」
「セクシーなオレ」

ふいにひらめいた。この三人組はほんとうはSEXの話をしているのだ。
その気になって聞いていると、すべてが隠喩にきこえてくる。
となりの男の名前が近藤だというのも、偶然ではあるまい。

おかげで、渋谷に着くまでの10分は空耳アワーを楽しむことができた。
むろん腹の虫もおさまった。

ハチ公前の交差点を渡り、坂をのぼって行くうちに、
「そうだ、アテレコもいいな」と思いついた。
ビデオでなにか作品を作らなくてはならないのだが、アイデアが浮かばなくて
困っていた。

アテレコなら映像とセリフが合ってなくてもかまわない。
音声を消してTVの画面を見ながら、勝手なセリフをしゃべる、あれだ。

――そんなことを考えながら、ここにやってきました。
よろしくお願いいたします。
私は相方のビデオカメラに向かって、頭を下げた。

2010年7月19日月曜日

目くじら立てないで

 ひさびさのお休みなので、寝床でごろごろしていたが、ビン、缶、ペットボトルを捨てる日なのを思い出して、起きることにした。ビン缶はなかったので、ペットボトルを3本袋につめて、三角公園の前の収集場所までもっていく。

 日差しがまぶしい。「さすがに夏だね」
 ビールの空き缶や清涼飲料水の容器でふくれあがった袋の山。
 てっぺんに、小さな袋をそっとのせる。

 家にもどってPCの前に座る。さっきより薄暗く感じられる部屋のなかで、問い合わせのメールに返事をし終わってさてと、窓を開けてみる。白日にさらされた廃棄物の小山が目に入った。
 はて?と見返してから思い出したとことがある。忘れないうちに書いておこう。

 ゴールデンウィークの旅の最終日、未練がましくフランクフルト空港のなかをうろついていると、なぜか人けのないロビーを見つけた。ひと息つくことにして近くの売店でコーラを買う。30分ほどかけて、スマートフォンで数日分の日記をつけ終わる。

 飲みかけにしていたコーラを飲み干してから立ち上がり、ペットボトルの表示のあるゴミ箱のところまで行って放りこむ。そのまま席にもどろうとした背後に人の気配を感じてふり向くと、あごひげの男がやってきて、捨てたばかりの500ミリのペットボトルを拾い上げて、リュックサックに入れて持ち去った。

 なんという早わざ。捨てるのを待ち構えていたかのようではないか。きっとそうなのだ。今か今かとやきもきしながら、どこかから私の様子をうかがっていたにちがいない。私が立ち上がって、ゴミ箱のほうに足をむけたとき、男は心のなかで「よっしゃ」と小さくガッツポーズをしたかもしれない。

 勝手がわからないおのぼりさんだろうと見当をつけて、気長に待っていたのだろうか。売店で買うときにデポジットの25セント(30円ほど)が加算されたのは知っていた。財布の小銭を減らすために買ったようなものだから売店まで足を運んで、25セントを返してもらうつもりはなかった。

 気づかないうちに観察されていたのは、よい気持ちがしないが、監視カメラだらけの今の世だから、目くじらをたてても始まらない。彼にささやかな喜びを与えることができたのなら、それでよしとしよう。

 私より一回り若く見える彼が背中にしょったリュックサックには、ふくらみ具合からして10本ばかりのボトルがつまっていた。いっぱいになるごとに交換に行くのかもしれないが、夕暮れ時がちかづくこの時刻までに、どれだけの稼ぎがあったものやら。

 ベルリンの街中でもビン集めの男を見かけた。公園のベンチに座っていると、自転車に乗った男がちかづいてきた。馴れた手つきでそばのゴミ箱をさぐって、何もとらずに去っていったが、自転車のかごに5、6本のガラス瓶が入っているのが見えた。身なりで判断をしたくないが、楽な生活をしているようには見えなかった。

 私は売店に行き、もう一本コーラを買った。
 席にもどり、封をきらずにそばにおき、また彼がやって来ないだろうかと、ちらちらあたりに目を走らせる。どこかからそっと様子をうかがっているのではないかと、そ知らぬふうを装いながら、神経をとがらせていたが、とうとう彼の姿を見つけることはできなかった。

 なにしろ空港は広いのだ。もうひとつのターミナルへ移動してしまったのかもしれない。「よかったら中味もどうだい」と言って手渡したかったのだが、そろそろチェックインをすませたほうがよい時刻だ。手をつけていないボトルをその場にのこして、荷物を背負う。

 「あいにく、体によくないそのアメリカの飲み物は苦手でね」
 男はそう答えるんじゃないか、そうしたら「ビールならOKかい」と一杯誘ってみるのも面白いだろう、などと想像をふくらませていた自分がおかしい。

 つまらない自己満足のために馬鹿なまねをするのは毎度のことだ。
思い出すたびに恥ずかしくなる。チェックインをすませて、JALのラウンジに入る。
「偽善と呼ぶのもおこがましいか」
ビールのグラスを手に、乾燥納豆をかじりながらつぶやいた。

2010年7月14日水曜日

機内サービスあるいは…

 そういえばこんなサービスに出会いました。

 フランフルトから成田に着き、帰宅せずに羽田経由で松山便に乗ったときのこと。
 乗客が全員席に着いた出発間際になって、見たところ70代なかばの老人が乗りこんできた。
最初からなんとなく不機嫌で、CAさんが荷物を棚に上げるのを手伝おうとするのに、
「私にだってできるんだ。背は低いけどな」と言って、バッグと手提げを渡そうとしない。

出発時刻をすぎているので、CAさんとしては、さっさと席についてほしいだろうに、
老人はわれ関せず。時間をかけて荷物を収納し終えて席に着いたと思ったら、
今度は「新聞をもってきてくれ」。
「あいにく今年の1月5日で廃止になりまして」
「けしからん。そんな話は初耳だ」でひと悶着が始まった。

 通路をはさんで私の斜め前、非常口そばが老人の席だった。機が動きだしても
老人の不満はおさまらない。老人と対面して着席したCAさんが
「いたらないことが多くて申し訳ありません」と声をかけると、ここぞとばかりに
JALの悪口を並べ立てはじめる。
「あんたらは客が求めてるのが何だかわかってないんだろ。教えてやるよ、早い、安い、安全だ」

 「それじゃあファストフードとかわんないよ」と突っ込みたくなるようなことから
「前の社長が何々をして、その前の社長があんなことをして」と、どこで聞きかじってきたのか、
というしたり顔の話がつづく。

 タキシングを始めていくらもたたないうちに機が停止してしまったので、
老人の独演会は止まらない。十数分たったころ、呼び出し音が鳴ってCAさんが受話器をとる。
「出発便が混雑していて、この機の離陸はこれから7番目になるそうです」
受話器をおいたCAさんが、申し訳なさそうに伝える。
 ため息のような気配があたりに広がるが、老人ばかりは意気軒昂だ。

 私の席からCAさんの顔が正面に見える。とてもチャーミングな方で、
老人の失礼な物言いにも、けっして笑顔をたやさない。

 「あんたねえ、スチュワーデスでしょうが。ちがうの? なんとかアテンダトとか、
気取るんじゃないよ」
 「どうして、そんなふうに思われるんですか。気取ってなんかいませんよ」
 CAさんは余裕の表情さえうかべて答える。

 「あんたらは知らんだろうが、エアホステスと呼ばれてたこともあるんだよ」
 いつの間にか、うれしさで老人の声がデレっている。

 ようやく離陸し、水平飛行に移ったが、気流の関係で、いつまでたっても
ベルト着用のサインが消えない。CAさんも席を立てない。老人には天国である。
 それでも、いつかはサインが消える。CAさんはにっこり微笑んで席を立った。
 前方でCAさんとチーフCAさんが言葉を交わすのが見えた。

 チーフがやってきた。お辞儀をしたあと、床にひざをついて老人の前にしゃがむ。
 「なんだ、あんた」老人はとまどった様子。
 「Sがとても有意義なお話をうかがったと喜んでおりました。よろしければ、私にもお聞かせ願えませんか」
 「チーフに言いつけるなんて、Sちゃんもひどいな。あんたに話すようなことじゃないよ」
 いかにもデキル女タイプのチーフのTさんに、老人も気後れしている。
 「どうしても駄目ですか。私もぜひ参考にさせていただきたかったのですが」
 「そこまで言うなら、話してあげるけど。あんたが話せというから話すんだよ」

 結論から言うと、このあと着陸前のベルト着用サインが点灯するまで、
チーフはその姿勢をくずさず、老人の話し相手をつとめていた。
 フランクフルト往復のFクラスの機内でも目にすることのなかった「伝説」のひざまずくポーズのまま、
およそ40分くらいものあいだである。

 話を聞いてもらえることほど、年寄りにとってうれしいことはない。
アルツハイマーの母との6年間で、私には身にしみている。
「元気なときになんでもっと会いに行って、話を聞いてあげなかったのか」という後悔の念がよみがえってきた。

 トイレに立ったついでにギャレーをのぞくとSさんがいた。
 「たいへんでしたね」
 「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうぞ空いている席に移って…」
 「感動しました。こんなすごいサービス、初めてです」

 着陸前にSさんがもどってきて着席した。老人は「チーフにもお礼を言われたよ」と
得意げである。着陸し、搭乗口で停止するまで、老人はご満悦でしゃべり続けていた。
 Tチーフがつきっきりだったのは、おそらく要注意人物から目を離したくなかったからだろう。
とにかく老人は満足だったにちがいない。

 病院に行き、私のことも見分けがつかない母につきそい、翌日の便で横浜へ。
 一週間後に母が亡くなった。そのせいか印象にのこるフライトだった。

2010年7月13日火曜日

飛行機好き

 母の四十九日で里帰りしました。新盆は弟にまかせることにして、とりあえず私はお役御免。様子見のための毎月の里帰りがなくなって、ちょっとさみしいのは、不謹慎かもしれませんが、もう当分飛行機に乗ることがないことです。

 マイルがたまったので特典航空券で、ゴールデンウィークにドイツ・チェコに出かけたのも含めれば、今年の搭乗回数は18回で、これ以上伸びないかな。子どものころからの飛行機好きで、学生時分は帰省するのに直行便に乗らないで、大阪、福岡などを経由して帰るなどという馬鹿なこともやっていました。

 2年ぶりのフランクフルト往復では、行きの便のキャビンアテンダント(CA)さんがなかなかよい印象でした。たまたま通りかかったCAさんに「いまどのへん飛んでるのかな」と聞くと、「シベリア上空だと思いますが、ただいま機長に確認してまいります」。わざわざ調べに行ってくれたうえ、地図帳をもってきて詳しく説明してくれました。窓の下になかば凍った湖が見えたので「あれがこの○○湖かな。絶景だけど、住みたくはないよね」とか、ヒマにあかせてつまらない無駄話をしても、いやがらずにつきあってくれます。

 食事のあと「調理を担当した○○です。お肉の焼き加減はいかがでしたか」と声をかけてくれたので、「○○さんなの! だったら食べる前に教えてほしかったな。こんな美人が作ってくれたと知ってたら、もっと味わって食べたのに」と、どうしようもないオヤジぶりを発揮しても、「んなこといっても、何もでないよ、お客さん」と返さないのがさすがです。

 お腹のところで両手をかさねて「おそれいります」お辞儀をする姿のなんと優雅なこと。私なんか生まれてから一度も使ったありませんよ、「おそれいります」なんて言葉。勉強になりました。

 JAL応援してます。がんばってね。

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2010年6月25日金曜日

「ミッドライフ・クライシス」

 おととい、日経ビジネスオンラインで「男と女のミッドライフ・クライシス」という吉原真理さんのコラムを読みました。「ミッドライフ・クライシス」はアメリカではポピュラーな概念だそうです。日本語で言えば「中年の危機」ですね。

「あるときふと、「自分の人生はこれでいいのだろうか」とか、「こんなふうに、敷かれたレールに乗った人生を送ることが幸せだと言えるのだろうか」とか、「自分は妻/夫を本当に愛しているのだろうか」とかいった疑問を抱き始める。

 体力や容姿においても、20代のときの自分と比べるとあきらかな低下が見られるし、自分の能力を含めた現実をかんがみて、残りの人生でできることを冷静に考慮するようになる。そうしたことをいったん考え始めたら、焦りや圧迫感で、いてもたってもいられなくなる。それがミッドライフ・クライシスである。」


 なるほど。まさに私のことです。「中年の危機」と聞くと、うつとか不倫とか、なんだかやばそうなことを思い浮かべてしまう私ですが、「ミッドライフ・クライシス」のほうは響きがいいじゃないですか。映画のタイトルみたい。このさいどっぷり浸かってみましょうか、なんて気になっちゃうかも。ありふれたものだとわかったからといって、慰めにはならないわけで、いっそのこと開きなおっちゃおうじゃないですか。

 いえ「中年」にせよ「人生のなかば」にせよ、とっくに越えてしまってますよ。日々、老いを感じております。あせっております。この数年間、じょじょに記憶を失っていき、最後には私の顔も見分けがつかなくなってしまった母を訪ねるたびに、のしかかってきた苦しさは、母にたいする哀れみばかりではなかったはずです。自分の明日の姿におそれをなしていたのです。

 「ミッドライフ・クライシス」のご同輩たちがどういう症状を見せるのか、もう少し吉原さんのコラムから引用してみましょう。


 「まずは、やけに若作りな髪型に変えるとか、髪を染めるとか、急にジムに通って身体を鍛え始めるとか、強壮剤を飲むとか、シワ取りや整形手術をするとかして、身体的に若返ろうとするパターン。

 これと関連してよくあるのが、これまで子どもの送迎に使っていたセダンやステーションワゴンをコンヴァーティブルのスポーツカーに買い替えるとか、自転車で通勤することにして車を売ったお金でヨットを買うとかして、ライフスタイルの変化を主とするパターン。

 より本格的な人生改革としては、それまでの会社勤めを辞めて自分の店を始めるとか、高い収入や地位の専門職を捨てて教師や社会奉仕事業に転職するとか、それまで趣味でやっていた音楽や執筆を本職にしようとするとか、あるいは仕事を辞めてしばらく旅に出るとかいったケースもよくある。

 より自己破壊的な形のミッドライフ・クライシスの表出としては、アルコールや薬物への依存症といったものがある。

 圧迫感や鬱屈感の生産的な解消法が見つけられない男女がこうした道をたどる。また、中年期に入って急に性に目覚め、まるで気が狂ったかのように、相手を見つけては片っ端から性交渉をもつといった例もあるが、タイガー・ウッズの例に見られるように、これも一種の依存症である。

 そして、もっともありがちでかつはた迷惑なパターンが、浮気・不倫である。ひとまわりもふたまわりも年下の相手と浮気をするとか、出張先で知り合ったゆきずりの相手と交際を続けるとか、職場の秘書と関係をもつとかいったケースが多い。同窓会で昔の恋人や友達と再会し、焼け木杭に火がついてしまうこともある。」


 週に1回は家から仕事場まで歩いて行ったり、朝だけはエレベータを使わないで6階まで上がるというのは、ささやかですが「身体的に若返ろうとするパターン」と当てはまるかもしれません。今年になって5キロやせましたからね。「わるい病気にかかってるんじゃないの」とか、心配されたりすることもありますけど。

 一人で海外旅行にでかけたり、伊東先生のドイツ語講座に出席したり、7月から始まる半年間デジタルビデオ講座に申し込んだりしてしまうのは、「ライフスタイルの変化を主張するパターン」でしょうか。

 ありがたいことにアルコールや薬物への依存症はありませんし、浮気や不倫とも無縁です。一生に一度もそういう経験がないのはさみしい気がしないわけではありませんが、いまさら家庭の平穏をこわしてまで、そんなことをするほど元気ではありません。

 タイトルが「男と女のミッドライフ・クライシス」ですから、コラムの後半で吉原さんは夫婦のあり方について書いてます。


 「そうした最近の研究のひとつによると、お互いに強い「コミットメント」を抱いている幸せな夫婦にとって、そのコミットメントとは、必ずしも相手への愛情とか忠誠心といったものからのみ生まれるものではないらしい。

 むしろ、夫婦間の絆を強めるのに大事なのは、相手と一緒にいることによって、刺激的な経験ができ、自分の世界が広がり、相手のおかげで自分がよりよい人間になれるという気持ちになれると、お互いが感じられること、だそうだ。

 ある実験によると、なにかの課題に一緒に取り組み、困難を乗り越えて最終的に目標を達成したカップルは、そうした経験を共有していないカップルよりも、お互いへの愛情や満足度が高くなる、との結果が出ている。つまり、結婚生活を強化させようと思ったら、問題を避けて平穏な暮らしを送ろうとするよりも、夫婦で一緒になにかにチャレンジし苦労を共有することのほうが効果的だ、ということだ。」


 なんか納得ですね。でも「刺激的な経験ができ、自分の世界が広がり、…よりよい人間になれるという気持ちになれる」というのは、夫婦関係にかぎりません。ミッドライフ・クライシスまっただ中の私が、一人旅をするようになったり、講座に参加して趣味を広げようとしたりするのも、まさに潜在的なこうした欲求の表れだと感じます。
 
 やせ馬にまたがって風車に突撃するようなもので、傍から見れば滑稽でありましょう。それは承知のうえで、自分を感動させるくらいのことはできるのではないかと、願うばかりです。

2010年6月18日金曜日

「20歳のときに知っておきたかったこと」

こんな歳になって気恥ずかしいのですが、自己啓発書の類を読んでいます。若いころは手に取る気にもなれなかったのに、むしろ毛嫌いしていたのに、格好をつけてたんでしょうね、若いころに読んでおけばと思いますよ。

読んでも読まなくても、今さらきょろきょろしない大人になれていれば、よかったのですが。せめて「こんなオレで何がわるい!」と開きなおる度胸があればまだしも。情けないですね。
今朝読み終わったのが「20歳のときに知っておきたかったこと」。著者のティナ・シーリグさんはスタンフォード大学で起業家育成コースを担当しておられます。その演習で出される課題がユニークです。どうすれば無から価値を生み出すことができるかといった難題に、学生たちが挑戦します。出題する側もあらかじめ答えを用意しているわけではありません。成果を上げるには発想の転換が必要です。

具体例はあげません。興味のある方は書店で手に取ってみてください。でも「私もこんな授業を受けたかったな」などとつぶやいたら、ティナさんに叱られますよ。「チャンスは無限にあります。いつでも、どこでも、周りを見回せば、解決すべき問題が目に入ります」「いまある資源を使って、それを解決する独創的な方法はつねに存在する」なのですから。

「ようするにビジネス系啓発本でしょ? ちょっとうさんくさい、あれね」と思われる向きもあるかもしれませんが、金儲けを成功の尺度にしている本ではありません。

「従来の考え方に閉じこもり、ほかの可能性を排除するのは、信じがたいほど楽なものです。周りには踏みならされた道にとどまり、塗り絵の線の内側にだけ色をつけ、自分と同じ方向に歩くことを促す人たちが大勢います。これは、彼にとってもあなたにとっても快適です。彼らにとっては自分の選択が正しかったことになり、あなたにとっては、簡単に真似できる秘訣が手に入るのですから」

この言葉にどきっとしました。年齢のせいかもしれません。亡くなった母の日記帳を何冊か、田舎からもってきました。30年分ほどの日記帳を見つけましたが、驚いたことに一昨年の分までありました。アルツハイマーが発症してから、年賀状すら来なくなり(筆まめだったのに)、大好きだった家計簿もつけなくなりました。ですから日記を書き続けていたとは想像もしていませんでした。

その母がちょうど今の私の年頃だった30年前の日記に、これからは自分を高めるような生き方をしなくてはならないと、一遍上人やら瀬戸内寂聴やらの言葉を引きながら、かなりの意気込みで書きつけてあります。なんとも血は争えないものです。

しかしその後の日記を飛ばし読みすると、せっかくの覚悟のほどが、どれだけ成果をあげたものやら、長続きしたものやら、母には申し訳ないながら、……はっきり書くのはよしましょう。
私もきっと母と同じ道をたどるのでしょうから。

2010年6月17日木曜日

なんだかこのところ

 2ヶ月ほどのあいだ、私としては忙しい日々が続いていました。といっても2週間のヨーロッパ旅行と母の死にまつわるあれこれを除くと、家と仕事場を往復するだけの毎日です。ですが意識は澄みわたり落ち着き払っているにもかかわらず、意識にならない心の深みであせりといらつきがゆれていて、胃のあたりがむずむずする感じが消えません。

 この6月に誕生日を迎えて、父が亡くなった歳を越えることができました。その数日前、まだ父の最期の歳のうちに母が息を引きとったのも、母らしい心づかいのように思えます。私が楽しみにしていた旅行からもどるまで、待っていてくれたのか、亡くなった翌週にはやはり心待ちにしていたコンサートがあって、その前にとあわてたのか、とにかく突然の、旅行前に病院で「あと数ヶ月は――」と聞いていたのに、せっかちに逝ってしまいました。母にはどちらのことも話してはいなかったのに、なんとまあタイミングを見計らったように、そこまで気をつかってくれなくていいのにと、切なくなりました。

2009年11月27日金曜日

授賞式

文化院で授賞式がありました。
取材にきていた民団新聞の朴記者が写真を送ってくれたので、恥ずかしながらご披露します。

今年、高校3年のときに亡くなった父の年齢になりました。
例年だと父の命日は過ぎてから思い出すことが多いくらいですが、今年ばかりは、自分の誕生日と10日後の父の命日のあたりで「おいおい、残りの人生このままでいいのか」などと、妙にあせっていました。
むろん生き方をかえるわけでもなく、しばらくすると意識することもなくなってしまったのですが。

とはいえその後、この「パリデギ」を読んでいるあいだ、死者の魂に励まされるという感覚が
とても身近なものに感じられたのを覚えています。
この本を読むように勧めてくれた妻は、自分では読んでいないものの、私が読むべきだと
いうことを本能的に察知してくれたのでしょう。

それにしても、まさかの最優秀賞はうれしいですね。
ちなみに副賞は旅行券10万円分でした。

2009年11月7日土曜日

「パリデギ」感想文

昨年、韓国で発表されてベストセラーになった「パリデギ」という小説があります。
北朝鮮で生まれ育った少女パリは、飢饉の故国を逃れ、中国を経てロンドンへと向かいます。
独りぼっちの少女を見守り、励ましてくれる祖母と愛犬チルソンの霊。 パリは死者の魂と話が
できるのです。だれかの体に触れると、その人の来歴が見えるという能力もあります。
このパリのお話が、韓国文化院主催の「読書感想文コンテスト」の課題作でした。
私も応募したところ、入選したという知らせをもらいました。
おそらく応募数が少なかったのでしょうね。ありがたいことには、かわりありませんが。

http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P51046853
こちらが感想文の「パリデギとは誰のことか」ですが、本を読んでいないとちょっと分かりづらいです。
久しぶりに読み返してみたら、自分でもあまりよく理解できませんでした。
物好きな方がいらっしゃったら読んでみてください。

2009年10月4日日曜日

コンサートに行ってきました

大田区民プラザであった李政美さんのコンサートに行ってきました。
チケットをいただいた大宮さんほどの大ファンではありませんが、好きですね。
聞きほれてしまいます。
初めて李さんの歌声を聞いたのは、7、8年前に開港記念館でなにかの集会があったおりです。 3、40人くらいの小さな集会に、ゲストとして伴奏のギタリストの矢野さんと来られてました。
最初に歌ったのが「京成線」で、そのあと何度か行ったコンサートでも、いつも最初のほうにこの歌を歌ってましたが、きのうは最後の曲でした。
オリジナル曲よりカバー曲が多く、それも欧米の曲がフランス、ポルトガル、ブラジル、アメリカとバラエティに富んでいて、私には新鮮でしたね。
アンコール曲の「What A Wonderful World」のメロディを口ずさみながら帰りました。

伴奏の佐久間順平さんがまた、いい味をだしてました。
お顔を拝見するのは、高田渡さんのコンサート以来なので、なつかしかったです。
ひげがなくなっていて、ちょっとびっくり。

一昨年の3月、上大岡の「ひまわりの郷」に聞きにいったときのことを思い出します。
母親の葬儀をおえた妻がソウルからもどってきたのがコンサートの前日で、誘うのも気が引けましたが、いっしょに行くと言ってくれました。
その日はなぜか「あなたの墓のそばに」「遺言」「イマココニイルヨ」といったしみじみとした曲が多くて、 涙ぐむのをこらえるのがたいへんでした。

2009年9月25日金曜日

田舎の秋

連休を四国の田舎ですごしてきた。秋晴れの縁側でぼんやりと柿の木などをながめてと、
そういうお休みならよかったが、母の介護であれよあれよの3日間だった。

アルツハイマーを発症したのが5年前。今年の春先くらいまでは、少しはつじつまの合う話が
できていた。とりわけ様子が変わったのはこの数ヶ月だ。
入れ歯とメガネの区別がつかなくなって、見当たらなくなった入れ歯がはいっていたはずの
容器に、「この入れ歯がここに入ってたでしょう」と言って、めがねを入れようとするので、
「それは入らないよ、メガネだから」と言うと、そうかねと返事をしても、
やはりメガネが気になる様子。
本人ももどかしいようで、何かが見つからなくなるたびに「こんなこと初めて」
「頭がへんになりそう」などとつぶやいている。

「さきに入って」と言って風呂を沸かしてくれたのはありがたいが、しばらくして私が
見に行くと栓をしていない、しかも蛇口からはお湯ではなく水が出ている。
自動湯張りにして、そろそろという頃、テレビを見ている私の前を横切って、
下着姿の母が風呂場に向かう。そんな姿を私に見せることは、これまでなかったのに。

母のあとで入浴し、風呂から上がって出てくると、母は玄関に立っていて、
ドアを開け外をうかがっていた。
「だれか来たの?」
「車であの女の人が」
私はすばやく頭をめぐらす。「デイの人はもう帰ったよ」
「どこに?」
「アスレに帰ったよ」アスレというのは母が通っているデイサービスの施設の名前だ。
はっと気がつくと母は下半身なにも身につけていない。
「無事に着いたと連絡あった?」
「そうそう、あった、あった。だから心配しないで」
居間に連れ帰る。

「カレンダーの29日のところに、ヒデオと書いとるね」
「22日のところね」
「きょうは何日?」
「23日」
「ヒデオはどうしたんじゃろか」
「帰ってきてるでしょ」
「誰が」
「ヒデオが」
「ヒデオはいつ帰ってくるの?」
「私がヒデオだよ」
「あんたがヒデオちゃん?」
「タツオだと思った?」
「そうだねえ。おかしいねえ、タツオはまだ小さいのに」
「40過ぎたおっさんだよ」


なによりも様子がちがうと感じたのは「いつもいつもみんなに大切にしてもらって、
ほんとうに幸せ、私みたいに幸せな人間もいないよね」という口癖が出なくなってしまったこと。
むろん自分に言い聞かせているようでもあったし、息子に心配をかけなくないという
思いもあっただろうが、そう言うときの顔は、にこにこと幸せそうに見えた。
とにかく辛いとか苦しいとか、一人暮らしが寂しいとか、そういった愚痴をもらすのを
聞いたことがなかった。
「お母さんが元気で幸せでいてくれるから、助かるなあ。ほんとにありがたいよ」
と私のほうから水を向けると
「幸せじゃないよ」という答えが返ってきて胸をつかれる。
「楽しいことなんか何もないし。おいしいものもないし」
「ヘルパーさんはよくしてくれる?」
「さあ、どうかねえ」

それでも一晩いっしょにいて、次の日散歩がてら、うどん屋へ。その帰りに、
ようやく「みんなから大事にしてもらって、幸せもんだと思うのよ」という言葉が聞けた。

いつもそばにいてあげることができれば、症状の進み具合を遅らせることもできるのではないか。
ケアマネージャーのIさんに電話をして相談する。「30年もその家で一人暮らしをしていますからね。
だから何とかやっていけるんです。横浜なんか行って環境が変わったら、まちがいなく進行しますよ」
そうかもしれない。だけどそうじゃないかもしれない。
「それよりもっとしょっちゅう会いにきてあげたらどうですか」

たしかに2ヶ月に一度などといわず、毎月、あるいは月に2回来られれば! 
無理をすればそれくらい、と思いつつも、頭のどこかで、自分の今の生活をできるだけ
守りながらだと可能なのは、などと計算している自分がここにいる。

2009年9月8日火曜日

夏休み パッピンス

「スッカラ」9月号をめくっていると「トゥラン」というお茶屋さんの記事が目についた。
写真のパッピンスがとてもおいしそうだった。
ゆず茶ピンスと緑茶ピンスがあって「それぞれゆず茶や緑茶を凍らせた氷を削っており、
氷そのものから深い味わいが楽しめる」というのも良さそうだ。
しかも地図でたしかめると、ホテルからせいぜい徒歩10分のところらしい。

カミさんのすぐ上のお姉さんが大邸から上京したついでに、会いに来てくれたので、
昼食のあと3人ででかけた。(ちなみにホテルの一階のレストラン(入り口は別)で
食事をしたのだが、この店もたいへんおいしかった)

ホテルの東側の広い道を渡ると、観光客の姿は消えて、下町の雰囲気が濃い路地があらわれる。
地図どおりに2度ほど折れ曲がって進んでいくと「トゥラン」があった。
思っていたよりこじんまりとした伝統的な家屋を改装したお店だった。

扉を開けるとやさしい微笑をうかべたキム・エランさんが、迎え入れてくれた。
ほかにお客さんがいないので、中庭に面した席でくつろいでいると、写真で
見たとおりのパッピンスが登場。ナンジュ義姉さんのゆず茶ピンスもおいしそう。

エランさんもいっしょに記念撮影。韓日合作映画「カフェ・ソウル」で中心的な
役割を担っている伝統菓子店「牡丹堂」は、このお店が撮影現場だとか。
写真集を見せてもらったけど、映画もなかなかおもしろそう。

お店の電話番号 02-745-7420 URL http://cafeaeran.com

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2009年9月6日日曜日

夏休み 仁寺洞のホテル2



初めて歩く夜の仁寺洞は、子どものころの縁日を思い出させるにぎやかさ。
しばらく冷やかして歩いた後、北側のはずれにある釜飯屋さんで夕食。
五目釜飯ときのこ釜飯、焼き鳥2本を注文しました。
釜飯の味付けはすこし甘めで、日本的な香ばしさにはやや欠ける感じ。 焼き鳥はねぎま。かなりおおぶりで串の長さが20センチほどもあるのに竹串が細くてぽよーんとしなります。折れそうで折れないところが、なかなかのもの。
ホテルのななめ向かいのセブンイレブンで、ビールおつまみを買って帰り、 リビングで持参のDVDを観てから就寝。

ホテルの朝食は豪華とはいえませんが、私としては満足のレベルでした。
卵料理がスクランブルのほかにもう一品、ゆで卵、目玉焼き、ポーチドエッグと いったふうに毎朝ちがったものがでます。お惣菜やフルーツも少しずつ変化があります。
シリアルは甘くないの甘いのが合わせて3種類、クルミとアーモンドを好きなだけ入れられるので、ちょっと贅沢な感じかな。

朝食のダイニングとガラスで仕切られた向こうに室内プール。
腹ごなしにひと泳ぎすることに。更衣室のロッカーは暗証番号を設定するタイプなので、 手首にキーバンドを巻く必要なし。
サウナや大浴場を素通りしてプールへ。

貸切り状態のプールは水が透き通っていて、ときどき出かける○○区スポーツセンターのプールより気持ちがよい。水温も28℃といたって快適。 全長は17,8メートルくらい、深さは1.5メートル。
ほかに子ども用のプールとジャグジーがあるのもよいですね。
とはいえ、ジャグジーは薬くさくてお湯がべたつく感じがしたので、入ったのは一度だけでした。

2009年9月5日土曜日

夏休み 仁寺洞のホテル1

3年ぶりに韓国を訪れ、夏休みをすごしてきました。
ソウルではホテルに4泊。なかなかよいホテルだったのでご紹介します。

これまではカミさんのお姉さんの家でやっかいになることが多かったのですが、
なにもしないで、ぼうっとしていられるリゾート気分の夏休みという私の希望を
優先させていただきました。

ゆっくりとくつろげて、プールやフィットネス、ジャグジーも完備、
(地下鉄に乗らなくても)気持ちのよい街歩きができて、おいしい食べ物屋さんが
すぐに見つかる、夜は静かで、持参したDVDが再生できる、
それでいて料金はリーズナブルというのが最低条件でした。

ちょっと虫がよすぎるかなと自分でも思いながら、ホテルの予約サイトで検索していると、
……ありましたよ。「フレーザースイーツ」。仁寺洞の通りに隣接していて、
鍾路3街駅から徒歩3分という立地です。
営業開始が2002年ですから、まあ比較的新しいといってもよいでしょう。

こちらのホテルの1ベッドルームを予約。
寝室、リビング、キッチンがそれぞれ独立しているコンドミニアムタイプです。
「一泊11,200円」も部屋単位の料金ですから、わるくありません。
ちなみに朝食付きの値段です。カミさんが気にしていたドライヤーとアイロンも備えつけです。http://hotel.konest.com/hotel_detail.html?h_id=fraser_suites

初めてのインチョン空港(広いです)には、義兄が迎えてきてくれていました。
走っているあいだ、しゃべり続けているカーナビが珍しく、またたく間に市街へ。
いよいよホテルに到着。スムーズなチェックインですが、日本語は通じません。
部屋でのインターネットは有線でも無線ランでもOK、しかも無料で使い放題とのこと。
カードキーを渡されて部屋へ。

エレベータはカードキーを差し込まないと動かないと聞いていましたが、
差し込んでボタンを押しても動かない!
レセプションに引き返して文句を言うも、「いったん差し込んでから、すぐに抜く。
それからボタンを押す」という手順を理解していなかったことが判明。

無事エレベータも動いて、5階の部屋に入ると「広ーい!」。
夏休み期間中だというのに、2ベッドルームにアップグレードされてました。
予約時に高層階を希望していたのにと、ちらりと胸をかすめた不満もいっきに解消。
じつは成田からの飛行機も、思いがけずエグゼクティブクラス(ビジネスクラス)に
アップグレードされていました。

「たまにはこんなことがあってもいいよね」
「むしろ明日からがこわい」
点検をしながら部屋から部屋へ。

主寝室はダブルベッド。サブはシングル2台のツイン。バスルームがふたつ。
ひとつには浴槽とシャワーブースがあり、もうひとつはシャワーブースのみ。
リビングは20畳ほどあり、窓からの眺めはなかなかのもの。
全体の広さは100平米ほどだろう。
テレビはリビングと主寝室にあり、どちらも21型のブラウン管タイプ。
NHKの衛星放送が受信可(アナログ)。
台所には、家庭にあるような冷蔵庫、オーブンレンジ、トースタ、湯沸しポット、
食器類、包丁や栓抜き、ふきん、洗剤までそろっているので、
食材さえあれば、すぐに調理が可能です。

荷解きをすませから、暗くなった街へとくり出しました。

2009年9月4日金曜日

一喜一憂(3)


またまた続きです。

7月に小池龍之介さんという禅のお坊さんの話を聴きました。
いろいろと話してくれたのですが、印象的だったのは子育てについてです。

子育てで肝心なのは――
エアコンの音にかき消されそうな、ささやくほどの声量ながら、
けっして言葉を聞き違えることはない、よく届く声でした。

ほめない、叱らない
喜ばない、がっかりしない

禅問答のたぐいかと思いましたね。
この戒めは、わたしがこれまで耳にした子育て論とは、かなり異なっています。
さっそく「それでは何をすればよろしいのでしょうか」と質問いたしました。

どんなことにも揺るがずに、見守り続けること

こそりとした言葉が返ってきました。
それから、子どもは親の顔色をうかがって、いい子を演じようとする。
そして大人になってから、親を憎むようになる、といったことをつけ加えられました。

子どもの態度や成績にたいして、親が一喜一憂していたのでは、子どもが
うまく親を喜ばすことができるにせよ、親の期待に応えられないと自責の念に
かられるにせよ、ほんとうの信頼関係は生まれない、ということのようです。

どういうことでしょうか。
完全にのみこめたわけではありませんが、なんとなく思いあたることがあります。
成績のよい娘が、よい点数のテストを持って帰ってくると、当然ほめました。
たとえ息子が悪い点数をとったとしても、叱ったりはしないで、むしろ励ましていたつもりです。
それでも親を失望させていることを感じとって、劣等感をつのらせていたと、
高校生になった息子から聞きました。

どんなことも同じように受け入れて、何事にも動じない、そんなことは煩悩に
とらわれた私などには無理なことです。たとえそれができたとしても、
こんなふうに育てられた子は社会性を身につけることができるだろうか?
子どもが目の前で人を傷つけようとしたり、傷つけてしまったときも、叱らないのか。
叱られなかった子どもは、かえって愛されてないと感じることはないのか?

考えるほどに疑問がわいてきます。
とはいえ子どもが精神的に不安定で、しっかりとした支えが必要なときに、
親が一喜一憂していて、問題の本質を見過ごしてしまうことはありそうです。
そのせいで、不信感を植えつけられたり、思いがけず深い傷を心に負わせて
しまうといったことが起こりうるでしょう。
親子ばかりでなく、夫婦でも友人同士でも、職場の人間関係でも ありえる
ことかもしれません。

だから思いだしたときには、つぶやいてみるつもです。
ほめない、叱らない
喜ばない、がっかりしない


2009年9月3日木曜日

一喜一憂(2)

昨日の続きです。

ドイツ語ゼミに出かける前に「日経ビジネス オンライン」で、鈴木義幸さんの
「ここで怒るかそれとも笑うか、それって実は自分次第」
というコラムを読んでいました。

『夜と霧』の著者で、ナチスの強制収容所を生き延びたユダヤ人心理学者
ヴィクトール・フランクルの印象的な言葉を引用*したあと、彼はこう述べます。

「つまり、刺激が直接、反応を引き起こすわけではない、とフランクルは
言っているわけです。アウシュビッツという“刺激”も自動的に「苦しい」
「つらい」「悲しい」という“反応”を引き出すわけではなく、刺激と反応の間には
スペースがあり、そのスペースの中で、どのような反応をするのかは全て個人が
選ぶことができる、と。そして、どのような反応を選べるかがまさにその人の
精神的なレベルを表象している、と。」

なんだか胸にストンと落ちる言葉でした。
体がすこしだけ軽くなったような気がしました。
そのあと、この言葉を気にかけていたとか、肝に銘じて自分の反応を選ぼうと
心がけたとか、そんなことはありません。
自然体でいたつもりです。
それでも、ゼミではいつもと気持ちのありようが違っていましたね。
知らない間に効いてくる薬のようなものだったのでしょうか。

*引用文
「刺激と反応の間には、いくばくかの「間」が存在する。私たちは
この「間」の中で、自分の反応を選択する。私たちの成長と自由は、
私たちが選ぶ反応にかかっているのだ」

2009年9月2日水曜日

一喜一憂

昨晩は仕事を抜け出して、神保町の伊東乾先生のドイツ語ゼミへ。
定刻の7時になっても先生が来られず、それはいつもどおりのこととして、
5人の受講生は席についたまま、ひっそりと待つことに。

このゼミは、毎回、初級文法のおさらいをしたあと、旧約聖書と
ヴィトケンシュタインの「論考」を少しずつ読むというスタイル、
というと格好いいですが、実質的にはゼミというより講義ですね。
わかってもわからなくても、さまざまな分野で活躍中の先生から
いろいろな分野の話をうかがえるのが楽しみという会です

テキストの「中級ドイツ語」の自習に余念がないはこのゼミ古参のSさん。
一番前の席で英字新聞を広げている学生さん。「週刊聖書」をめくる合間に
チロルチョコを召し上がっておられる編集者の方。私の列のならびには
気がのらない様子で携帯に文字を打ち込んでいるFさん。

私はテキストもカバンの中の閑つぶし用の新書も開かず、ただぼんやり。
そしてこのぼんやりがなんとも言えない快感で、するすると時間が過ぎていきます。

仕事場にいても、家にいても始終何かをしている、夜中に目が覚めたときでさえ
電気をつけて本を開く、それって強迫神経症みたいなものじゃないの――
なにもしないでいられるというのが、心の自由を得られたような気がして、
満足感がこみあげてきます。

ときどき目をつぶったり、眠くもならないのでまた目を開けたり、
意識がとんだ覚えもないのに気がついたら7時50分。
左の女性が席を立って事務の女性に何かをささやいてから、部屋を出て行きました。
事務の方が申し訳なさそうに「先生に連絡を取ろうとしているのですが……」
残りの4人は、どうぞお気遣いなく、と口には出さずうなずきます。
この平穏さ、静けさが肩のこりや目の疲れまで癒してくれそうで心地よい。
この場には何かの力がはたらいているのでしょうか。

コリ文は気ぜわしい一日でした。
この場で発表してしまいますが、風邪の熱でお休みの朴先生から
「病院へ行ったらオメデタだと言われちゃいました」
という電話がありました。
切迫流産のおそれがあるので、数週間は安静が必要ということで
大至急、代講の先生を手当てすることになりました。
やさしい先生方が、そういうことなら私がやりましょうと、次々に手をあげて
くれたので、こちらは一件落着。
コリ文の先生方はほんとうによい方ばかりです。

8時半になり、すっかり疲れがとれたような気がしたので、帰ることにしました。
靴をはいていると事務の方が、どうぞお詫びのしるしにと伊東先生の新刊
「楽しい騙しのインテリジェンス?」という新書を渡してくださいました。
「楽しく騙されて、頭がすっきりしました」と答えると、3本目のチョコバーを
食べ終えた編集者がハハと笑い声をたてました。

私は元来せっかちなほうで、マンガを読んだり自分で無駄に時間をすごすのは
平気なくせに、人に待たされたりすると、いらいらしがちな人間です。
それなのに昨日は、負け惜しみ抜きで、すこしもいやな気がしませんでした。
そういう「いらいらしない自分」にますます気分がよくなりました。









2009年1月13日火曜日

シュタージ文書の閲覧申請

ドイツ訪問のひと月ほど前に、シュタージ(国家保安省)の報告書の閲覧を申請してみた。申請そのものはむずかしくない。シュタージ文書を管理している役所(BStU)のHPから申請用紙をダウンロードして、必要事項を書き込んでからドイツ大使館で認証してもらい、郵送すればよいだけである。うまくすればベルリンに滞在中に閲覧できるかもしれないという目論みだったが、もっと早く申請しておくべきだったようで、10日ほどで受付けたという手紙が届いたものの、私に関する報告書が現存しているかどうかの通知は、出発までに届かなかった。

通知は帰国後2週間たってから届いた。結論としては、見つからなかったということで、いくらかは期待していたので残念だった。しかし見つからなかったということが、かならずしも報告書が作成されなかったということを意味しているわけではない。壁が崩壊してから、シュタージは全力で機密文書を焼却したりシュレッダーにかけたりしたのでかなりの文書が失われてしまっている。シュレッダーにかけられた紙片の復元も試みられているが、膨大な量なので復元し終わるまでに数百年かかるだろうと言われているほどだ。

特定の容疑者だけでなく、一般の市民の多くもシュタージの監視対象になっていたことが今ではよく知られている。資本主義国からやってきた外国人である我われは、当然対象になっていたはずだ。電話をするたびに混じるかすかな雑音は、日本語で話し始めると途切れてしまうが、ドイツ語だと最後まで聞こえていたし、宿舎の部屋においてあったベルリンの壁を西側から写した写真集は、いつの間にか消えてしまっていた。雇っていた東ドイツ人の運転手は、30代の口ひげをはやしたビール腹の気さくで陽気な男だった。とはいえ私たちを乗せて検問所を越え、西ベルリンと私たちの町を自由に行き来することができる彼が当局の関係者であることは、日本人全員が承知していた。

なかでも私のように頻繁にドイツ人の同僚たちの家を訪問したり、東ドイツ内を気ままに旅して回ったりしていた外国人に、シュタージが関心をもつというのはありうるだと思う。もし「報告書」が存在していて、それを読んでからアイゼンヒュッテンシュタットを訪れ、旧EKOで同僚たちと再会していたとしたら、なつかしくて愉快な一日をすごせただろうか。シュタージの活動があばかれている今となっては、報告者の氏名欄に、もっとも仲がよかった同僚や女友だちの名前が記されていても、驚きはしない。それでも再会した何人かのうちの一人が報告者だったら、お互いにそんなことは知らないふりをしてカフェのテラスでおしゃべりをし、別れぎわには抱き合ってという思い出が、一味ちがったものになったのはまちがいない。

注)BStU=die Bundesbeauftragte fuer die Unterlagen des Staatssicherheitsdienstes der ehemaligen DDR

2008年11月29日土曜日

旧EKO見学中・後編

video

冷間圧延工場を見学したあと、やはり私たちが建設した電気室、コンピュータ室の建屋に向かった。
コンピュータ室で、またもなつかしい顔に再会。当時は電気工学の大学院生だったアンドレアス・ポロックは研修のためにプラントに派遣されていた。いまでは冷間圧延工場の電気の責任者だという。
数年前の改修にあたっては、制御システムを独力でプログラムを組んで改善したとのこと。


左は取材に来た地元紙の記者ヤネット・ナイザーさん、右は当時契約をまとめる責任者だったクラウス・プフレーギング氏。






電気室の床板のいずれかの裏側に私の落書きが残っているはず。

このあと、どこを見たいかとたずねられたので、新鋭の熱間圧延工場を見せてほしいとたのんだ。
現在このコンビナートの主力である熱間圧延工場まで、車で移動。
ドアをくぐるごとに開錠と施錠をくり返すものものしさだったが、幸いビデオ撮影を許可してもらった。
一番上の動画がそれ。
500mに渡って熱い鋼板が流れていく様は壮観だ。動画はかなり省略して縮めてある。
数人の作業員で操作をしている様子を目にすると、多くの人たちがリストラされてしまったことが
いやでも理解させられた。

2008年11月13日木曜日

旧EKO(現ArcelorMittal Eisenhüttenstadt GmbH)見学中



EKOでの仕事が決まるまで、私は「あつえん」などという言葉を耳にしたこともなかった。なもんで念のために、ちょっくら解説を。冷間圧延は、製品(鋼板)の厚みの調整や、表面の仕上げをする工程だ。「鉄は熱いうちに打て」というが、ここでは冷たい板をそのまま扱う。そのためロールにかける圧力は1cm2あたり2百トンにも達するとか(記憶がおぼつかないので、まちがっているかも)。この圧力調整は油圧でおこなわれている。縦横に油圧配管が張りめぐらされた床下のオイルセラーも見ものだが、今回は時間
の都合でパスするほかなかった。

ちなみに建屋の反対側にあるソ連製のタンデム圧延機は、電動モーターでネジを巻くようにして圧力をかける仕組み。当時も相当古ぼけていたが、こちらも現役と聞いてびっくりした。青いカバーで覆われていて本体を目にすることはできなかった。

写真1.6Hiミルはフードの色が青に変わっている。
写真2.改修後の制御盤(昔よりカッコいい)。
写真3.圧延機の内部(放射能のマークは厚み計が放射線計測をしているから)

20人いた当時のオペレータで、今もこの工場にとどまっているのはベルント・シュナーベル一人だけ。当時から高炉の火は消えたままだったが、製鉄所らしく年中無休の4班3交代勤務だった。どの班も男4、女1の構成で、圧延機の操作にあたるのは男子のみ。女性の職場進出が進んでいる東ドイツにしては、ちょっと不思議な感じがしたものだ。ベルントによると、ほかのオペレータたちは、統一後、ほとんどがこの町を去ってしまったとのこと。みんな若かったから仕方あるまい。親しかったSさんの消息をたずねてみたかったが、二人の関係はだれも知らないはずだからと思いとどまることにした。

2008年11月11日火曜日

EKOあれこれ



再訪した旧EKOの様子をすこしだけ書きとめておきたい。取り壊されてしまったカンティーネ(食堂)のわきから地下道を通って冷間圧延工場へ向かう。

写真1:地下の連絡通路。スローガンのたぐいが消えたせいか、なんだかすっきりしている。



コイルヤードは静まりかえっていた。以前は、コイルを移動させるために天井クレーンがしじゅう動き回っていて、ずいぶん活気があった。猛禽のようにすばやく舞い降りてきて、一本爪のフックをコイルの穴にとおして軽々とさらっていく。けっして停止したりはしない。見事な早わざだった。

(コイルというのは鉄板を巻き取った巨大な「トイレットペーパー」状のもの。もう少しきれいな言い方だと「バウムクーヘン」。直径は人の背が隠れるほどもあり、重量は20トンと軽戦車なみ)

運転手はたいていオバちゃんで、下から手をふると警笛であいさつを返してくれた。冗談のつもりで「運転させて」と頼んだら、「上っておいで」。運転席から眺めると、地上はまるでコイルの畑だった。マークを書きこむ作業員はかくれんぼをしている虫みたい。

「下の連中をピンの代わりにして、コイルでボウリングをしてみたいと思ったことあるでしょ?」

「ないわよ」

「ほんとかな。夫婦げんかした日とか―― 正直に言ってみて」

さすがにコイルを吊らせてはもらえなかったものの、となりのクレーンにぶつからないよう移動させたり、フックを左右に動かしたり、しばらく遊ばせてもらった。

写真2:コイルヤード。以前とは並べ方が異なっている。かつてのようにバンドがはじけてボヨーンとなった錆だらけのコイルは見当たらない。
写真3:圧延機棟の天井クレーン(背後にも1台)とコイル

コイルヤードが薄暗いのは、となりの圧延機棟とのあいだに壁がつくられたせいもある。 壁がオペレータの詰め所の上を横切っているので狭苦しいでっぱりになってしまった。あそこでは閑なおり、ときどき昼寝をさせてもらった。試運転が始まってからは、休憩時間にオペレータたちとコーヒーを飲みながらおしゃべりにふけった思い出の場所だ。

写真4:青い壁で分断されたオペレータ詰め所

着任した日、工事長がみずから現場を案内してくれた。新品の安全帽に安全靴、作業服がくすぐったかった。工場に足を踏み入れると工事長が立ち止まってひと言。
「これだけは言っておく。けっしてケガをするんじゃない」
まだブロックがむきだしで、中もがらんとした詰め所まで来ると、工事長はさらにつけ加えた。
「ケガをするくらいなら、仕事しないで、ここで昼寝でもしていてもらったほうがありがたいんだ」

各部署をまわってあいさつをしている途中、うっかり玉掛け(吊荷)の下を横切ろうとして、さっそく「バカモノ!」と一喝された。なんでそんなに神経質なんだろう? 理由はあとで先輩から教えてもらった。工期を守ることが最優先なのに、人身事故がおきると警察の現場検証や安全対策の確認などで何日も工事が中断される。それをなによりおそれているのだ。

じっさいその後、工事が山場をむかえると、徹夜の突貫工事がつづくようになる。人身事故については、一度だけ不幸な事故がおきて、工事がストップしてしまった。

2008年11月8日土曜日

わたしのアイゼンヒュッテンシュタット



1989年以来この街はすっかり変わってしまったと、だれもが口をそろえて言う。もちろんそのとおりだろう。しかし私の実感としては「変わってないな!」である。泊まるつもりでいたインターホテル「ルーニック」やなつかしいディスコ「アクティビスト」は廃墟になっていた。製鉄所の正門があったあたりには「バーガーキング」が開店している。通りで見かけるのはVWやアウディ、トヨタやホンダ。でもそのほかは見事になにも変わっていない。すくなくとも表面的には。

住居の多くはペンキで化粧をされていくらか若返って見える。そのせいで、かえって時の流れを逆もどしにされたような変な錯覚をおぼえてしまう。
我われと下請けのユーゴスラビア人作業員の宿舎だったAWH3(Arbeiter Wohnheim 3)も外観はそっくりそのままだ。通りの名前もあいかわらずKarl-Marx Str.である。

玄関から通勤着姿の仲間たちがあらわれて「今晩アクティビストつきあってくれる?」などと話しかけられても、きっと不思議な気がしないだろう。
並んでバス停に向かって歩きながら「きょうはマグネットだよ」と答えるは、やはり20代の私のはずだ。ふわりと空気がゆらいで、日差しのなかに酸洗塔からはきだされる錆びのにおいが香った。

「ディズニーランドに行くと俺なんかでも童心にもどっちゃうんだよな」などという言葉を聞いても、ばかばかしいとしか思わなかったが、生活にくたびれはてた中年男が異世界の魔法にとらわれるってことはあるのだ!とわが身で実感。無邪気な話――だろうか。考えすぎかもしれないが、無意識のうちにでも自らが望んでしまえば、どんなドグマでもオカルトでもつけこまれかねない。すぐに悲観的なことと結びつけて考えるのはわるい癖です。