2011年2月16日水曜日

『息もできない』観てきたよ




 評判になっていることも知らず、昨年3月の日本公開から1年近くもたって観てきました。「すでにDVDが発売されてなんて! レンタルできたんだ」いやいや映画館で観ることができて、よかったですよ。電車賃とチケット代を使っても後悔なし。観てちょんまげ!観てちょんまげ!観てちょんまげ!と3回くり返しておきましょう。

 なにしろキネマ旬報の「2010ベスト10」で、外国映画部門の第1位に選出されたくらいですから、映画ファンの皆さんなら、とっくに観てますよね。「今ごろなに言ってんだ」のブーイングですね。

 私なんかが感想を言ってもはじまりませんが、とにかく興奮したので、となりのアンちゃんやらジイちゃんやらと盛り上がってしまいました。右隣りに座っていた、白髪で年齢の割りにがっちりした体格にモスグリーンのフードつき防寒着をはおっていた熊井さん。左隣りは黒い革ジャン姿、座席に浅く腰かけて、組んだ脚をつきだした一見チンピラ風の内田さん。(もちろん仮名です)座席の前後の間隔がせまいのがあいにくでしたね。窮屈さを意に介さないという面構えが素敵でしたよ。チンピラというのはもちろん冗談ですよ。ちょっと柄がわるかっただけ。映画好きの気にいいアンちゃんです。

  終映後、ロビーにでてチラシをあさっていると、ベンチに腰かけている内田さんと目が合っちゃいました。「ごめんなさい」と言いかけましたが、タバコをくわえ、火をつけるでもなく物思いにふけっている様子。となりに腰をおろし、何気なさをよそおって「サンフンに似てると言われませんか」とつぶやいてみました。内田さんはこちらをチラ見してから「씹할 놈아」とサンフンの口真似をして答えてくれました。
 思わずニヤリとしそうになるのをこらえて「突然、あんなふうに無防備になれるものだろうか」とひとりごちてみました。
 「いい歳をしていつまでも子どものままでいると、いざ大人になろうとするとき、ひどい目にあうと決まってるんだよ」内田さんお声が返ってきます。ことばを返せないでいると「大人になって麻疹にかかるようなもんだ」と続けます。
 「ヨニと出会うまでサンフンは恋愛経験もないよな、あれじゃ。ヨニともプラトニックだし、母と妹を失った事件にみまわれた時点で、成長を拒否してしまったんだね」
 「씹할 놈아」内田氏が吐き捨てる。
 「憎んでいるつもりだったのに、手首を切った瀕死の父親を病院までおぶって走る。なんとしても命を助けたいと必死になるよね」
 「親父のところに行っては、さんざん殴る蹴るの暴行を加えているのに、親父は姿をあらわすたびにぴんぴんしてる。本気でぼこられていたら、アザやタンコブじゃすむまい。しかもそれすらない。暴力のプロだからこそ加減ができる。意識的だったかどうかは別としてもな」
 「さすがですね。そういうお仕事だったんですか」
 「씹할 놈아」内田氏が口の端をゆがませて笑う。
 「『ブリキの太鼓』を思い出すな」と私。
 「オスカルか」
 「成長を止めているあいだは無敵だったのに、成長しようと決意したとたん、致命的な一発をくらってしまう」
 「窮屈なよろいを脱ぎ捨てちまいたいが、いきがってるだけに、もろさをさらけ出したら――」
 「やくざ映画ですかね」
 「サンフンがやくざに成れていればな。やくざは大人だよ。暴力なんてものは、ぜいたくと女を手に入れる手段、面子を保つための道具だと、割り切っていられる」

 「ちょっといいかい」
 ふいに割り込んできたのが熊井氏でした。ベンチの空いた席に荷物をおいて、自分は立ったまま。
 「センチメンタルになるものいいけど、家族が暴力の再生産の装置になっている。そのことを真剣に考えてほしいな。傷つきやすさが、むしろ暴力を生み出す原動力になっている」
 「씹할 놈아」
 思わずそう言ってしまったのは筆者だった。
 「サンフンは女を殴りつけている男を見ると、たまらなくなって殴りかかる。そのくせ自分もヨニを殴りつけたりする。なぜだと思う?」
 熊井氏はかまわず教師めいた口調で言った。
 「ヨニを殴ったのは反射的に手が出ただけで、殴るつもりじゃなかったし、悪いと思ったからこそ、意識をとりもどすまで、そばで待ってたじゃないですか」
いくらかどぎまぎしながら答えます。
 「二人はなんで惹かれあったんだ? たがいの淋しさや悲しみが魂にふれ合ったとか言わんでくれよ」

 「チンピラはもてるんすよ」内田さんはあくまでもまじめな声。
 「ヨニはおじけづくでもなく、憎しみを露わにするわけでもない。自然体で向き合ってくれる。それがサンフンには新鮮だったでしょうね」
 「怒りややるせなさを暴力に変換するのは、いちばん簡単だけど。愛にも変えられるんだぜ」
 内田さん、自分で言って照れないでね。
 「変換か。おれの若い時分は、部活で性欲を解消しろと言われたもんだ」熊井氏がぼそとつぶやいた。「サンフンは究極の草食男子だったかもしれんな」

 とりとめのない話はこれくらいにしましょう。『息もできない』が観た人だれもが、何かを言いたくなる映画なのは請け合いです。「最低の親父」とは無縁の家庭に育ったキミやボクでも、暴力への衝動を感じることはありますよね。そうでなければゲームやアニメ、映画やドラマの世界にあれほどまで暴力が充満しているはずないでしょう。本能に組み込まれているのか、共同体としての記憶なのか、とにかく我々は暴力が埋め込まれた地平線の上を裸足で走っている(ちょっとイメージしてね)のです。乾いた大地はときおりぬかるみに変わります。なのに暴力に絡めとられる怖れにおののくことを忘れてしまってはいないだろうか。忘れたふりをしている私たちは「씹할 놈아」とののしられて、ようやく何か大切なものを思い出すのではないかな。なんてカッコつけてみました、恥ずかし。