2010年12月22日水曜日

ESG

時事的な話題にそれほど関心があるほうではないので、Yahooトピックスを読み流してしまっていたが、英字新聞メルマガから配信された「ノーベル平和賞授与式、劉氏欠席のまま挙行」という記事(日本語の訳つきね)を読んでいるうちに思い出した。

「劉氏ばかりか、奥さんまで授与式に出席できないよう軟禁するなんて、みっともないことをするものだ。やっぱりあの国は……」などと、ありがちな感想は2ちゃんにまかせておくとして、それでも日本に生まれてよかったね、などと、いくぶん安心している自分がいたりもするのだが、はてと何かしらひっかかるので、記憶の糸をたぐると、そうそう、こんなことがあったな、というのは25年も前のことであるが、マールブルクにいたころ、あれはたしかESGの集会場でのこと――

ESGというのはEvangelische Studenten Gemeindeの略で、私が一年ほど暮らしていた学生寮の名称である。英単語からの推測で、アメリカにいる超保守の一派と混同されそうだが、ドイツではカトリックに対するプロテスタントのことを、一般的に「Evangelisch」と呼んでいる。無宗教の私がなんでプロテスタントの学生寮にいたかの説明は割愛するとして、韓国からやってきた神学生のSとそこで知り合い、その後長い付き合いになるので、なつかしい場所だ。

Sもいっしょだったはずだが、ある晩、日本からのゲストを招いての集まりがあった。部落開放同盟の、名前は加藤さんだったような気がするが、大阪出身の方だったはずだ、ボンで開かれるおそらくは差別にかかわるシンポジウムにでも参加するためにドイツに来られていたのではないか。マールブルクを訪問されたのはそのついでだったと記憶している。

中学一年のときに今井正監督の「橋のない川」を見て、部落差別というものの存在を知り衝撃をうけた体験があるので、むろん私も出席した。フォーラムが終わってから町へ出て、あるいは翌日だっただろうか、日本人学生の誰かの部屋だったような気がする、加藤さんから話を聞いた。

日本の外務省が加藤さんを入国させないよう、ドイツ当局に働きかけたので、ずっと入国許可がおりなかった。「反社会的な人物」というレッテルを貼られたのだろうが、いろいろな人の助けでようやくドイツ当局の誤解がとけて、ぎりぎりで出発できた。
おそらく役人たちからすれば、日本の「恥」を外国にさらしたくないという「愛国心」から職務を遂行したまでのことなのだろう。ボンで行われたシンポジウムのレセプションにも、こういう役人の同類がいて、ある日本人の大学教授はドイツ人たちに「日本に差別が残っているというはウソだ」とまくしたてていた。訳してもらって知ったのだけど、なんとも言えない気分だね。

というような内容だった。
どこの国にも差別や社会問題があるし、どこの国にも「臭い物にふた」をしたがる人間はいる。都合の悪いことを隠そうとすればするほど、中は膿んでいき、傷口が広がりかねないにもかかわらず。今回のノーベル平和賞にたいする中国政府の反応とその結果がよい見本ではないか。中国政府のヒステリックな反応、ノルウェーを恫喝し、各国に授与式へ欠席の圧力をかける、によって、劉氏の受賞の正当性を自らが立証してしまった。

国内の締め付けはともかくとして、海外に対してはソフトな対応をして、劉氏夫妻を授与式に送りだして、人権に対する配慮もこれだけできるんですよ、とアピールしたほうが、よほど国益にかなっただろう。いずれは民主化を進めざるを得ないことは明らかなのだから、はるかな道筋であっても、あのとき検討を始めておけばよかったと、政府が倒れる間際に後悔することになるかもしれない。

などと、他人のことについて立派なことを言うのはたやすいが、わが身をふり返るとエラそうなことを口にするのは赤面ものである。わりと自分の失敗や欠点をさらけだすは気にならないほうだが、それでも誰にも知られたくないことはあるもので、そこに触れられると逆上しかねないのもわからなくはない。
ESGでもある出来事があったが、ブログに書いたりできるものではないんだな、やっぱ。

2010年11月10日水曜日

モンブラン

友人がいないと公言している私だが、先週、32年ぶりに旧友と再会した。

相続した家の売却の件で帰省したおりに、高知大学勤務のNさん(阪堂先生のNHKラジオ講座のファンでコリ文まで訪ねてきてくれた)が、大学で同僚のTが私の昔なじみと知って、いっしょに食事でもと誘ってくれたのだ。

Tは追手前高に通っていたころの同級生で、いわゆる悪友である。
悪友といっても、授業をさぼって喫茶店にたむろし、雀荘にしけこんだくらいのもので、悪事をはたらいたことはない(記憶ちがいでなければ)。
二人で九州一周の弥次喜多道中という極めつけの思い出もある。

待ち合わせの店にあらわれたTが、学生時代と変わらない風貌であるわけはないが、頭を坊主刈りにしているとは予想していなかった。
とはいえ、かつての面影がのこっている。
いや、それどころではない。どこからどこまでもちっとも変わっていない。
しゃべり方といい、笑うときのでかい口といい、昔のままだ。

よく見れば歯にタバコのヤニがこびり付いているかもしれない。
目尻にしわがあるかもしれない。
そんなものは何でもない。
30年ぶりであっても、そばにいて少しも気をつかわずにいられるが、なによりTらしいところだ。
腹を立てることもあれば、欲もあるだろうが、それが周囲のものにとって脅威ではなく、むしろ人間味と感じられるような得な性分だ。
職場でのあだ名がドラえもんと聞いて、なるほどと思った。

「大学がええがは、プールや体育館、野球場が使い放題のところかのう」
「Tさんほど利用しゆう人は、ほかにおらんきね」
「最近はゴルフを始めたがよ」
「たまるか」
「Tさんはこれで、あんがい教育パパながよ」
「そりゃないろう」
Nさんが追手前の後輩だからと言って連れてきたKさんもまじえ、かつおのタタキを肴に盛り上がる。

「あのころも、ほんとに何があってもキレたりせん男でなあ」
とNさんに話していると「あのころはよ」とTが口をはさむ。
山あいの村をでて下宿暮らしを始めたばかりのTには、癖のある友人たちのやることなすことが刺激的で、ついていくだけで精一杯だった、というのが言い分である。
「こんな変人もおるし」というのは私のこと。

仕事にも満足、嫁さん息子娘たちにも恵まれているうえ、健康も申し分なし。大豊で暮らすご両親も健在である。
「悩みなんか、ないろう? あるかえ」
「そんなにバカにせんかて。そうじゃのう。……ないな」

この歳になって、こんな能天気な男がいてよいものだろうか。
こう見えて、ひそかに背徳の趣味にふけっているのではないか。はたまた不倫をしているとか。ひねくれものの私は、つい勘ぐりたくなってしまう。
しかしTの笑顔を見ると、まあ一人くらいはこんな男がいてもいいか、と苦笑いするしかない。

その晩、ホテルのベッドで夢を見た。
「困っちゅうがよ。もう首をくくるしかないき」
Tの坊主頭にしわが寄っている。
「酒でも呑んで忘れることじゃ」
さっきから話を聞いている私は、少しも深刻な悩みとは受け取っていないようだった。
「ほかにしようがないのう」
Tも観念したように笑い、腹のポケットから焼酎の瓶を取り出す。
「お前は何がええ」
「ほならドンペリでももらおうか」

雑魚寝していた私は、明け方近くに、いやな胸騒ぎにおそわれて目をさました。
目をこらして部屋のなかを見渡すが、Tの姿はない。
部屋という部屋、布団部屋から便所まで探すが、どこにもいない。
縁側の雨戸の隙間の向こうに人影が。
外にとび出すと、Tがクスノキに寄りかかってタバコをふかしている。

「おどかすなや」
「見てみい」

見下ろす谷には、もやがかかっている。ようやく白々と向かいの山の稜線が
浮かび上がってくる。
そのあたりを大勢の人が列をなして登っている。

「あの人らにも悩みがあるけんな」
「けんど、なーんも見えんな」
村夫子然とした姿にいっそう磨きがかかったTが、遠くを見つめる目をして言った。

2010年8月16日月曜日

映画『ANPO』

六本木の森美術館で映画『ANPO』を観た。
アート作品をとおして60年安保闘争に出会ったアメリカ人の監督が、アート紹介と制作者へのインタビューという手法で描き出す安保と50年を経た日米関係の現状は、見ごたえがあった。監督の心の動きを追体験していると錯覚しかねないほどだった。懐古趣味ではなく、歴史のどこかに居場所を見つけようという試みでもない。まさに現在と向き合うための手ごたえを感じさせてくれる作品だ。

監督のリンダ・ホーグランドさんは、日本で生まれ育ったアメリカ人である。60年代に山口と愛媛で公立学校に通っていたそうだ。と、ここまで書いてから、あんがいご近所さんだったり――と軽い気持ちでネットを検索してみると、予感が的中した。あるインタビュー記事によると、映画を自分にとって特別なものと認識したのは、小学6年生のとき松山で観た今井正監督の「橋のない川」だった、とある。私が「橋のない川」を観たのは、中学1年のときだった。そこに描かれた理不尽な差別に衝撃をうけた。恥ずかしい言い方だが、社会正義にめざめた。まさかおなじ町に住むアメリカ人の少女が、似たような体験をしていたとは。

「橋のない川」を観に行ったのは、学芸委員として、学年で団体鑑賞する映画を選ぶための下見だった。私は授業を休む許可を得ていたものの、友人の金田君を「いっしょに観に行こう」と勝手に連れ出したのがばれて、教師にこっぴどく叱られたことまで、40年ぶりに思い出してしまった(恥多き人生である)。

その日、場内に金髪の少女がいたかどうかは覚えていないが、アメリカ人の姉妹のうわさは耳にした覚えがある。街で白人の少女を見かけた記憶もある。当時、あの町にほかにアメリカ人一家が暮らしていたという話は聞かない。おそらく彼女か姉妹とすれちがったことがあるわけだ。

おなじ時期におなじ町で暮らしていた者として、ホーグランド監督が日本人の集団のなかにあって、どういう偏見と好奇心に晒されて学校生活を送っていたかは、容易に想像がつく。子どものころの体験が、日米関係のあり方に対する鋭敏な感覚を育んだにちがいない。

映画『ANPO』に話をもどすと、画面に映しだされるアート作品が魅力的なので、アートのもつ力に感じ入った。しかしながら我が身を顧みるに、映画で紹介されたアート作品の展覧会がどこかで開かれていて、私がそこに足を運んだとする。もしこの映画を観る前に、アートの実物と向かい合ったとして、映画ほどの感銘をおぼえただろうか。興味深く眺めるにはちがいないが、「こんな時代」「あんな時代」のひきだしの一つに感想をしまいこんで、それっきりにしてしまいそうだ。

映像上に複製されたアートが、実物以上に力をもつこともあり得る。場面を組み合わせ、音楽を入れ、言葉の力も借りる、これらを総合して作品を創りあげたホーグランド監督の映像作家としての力量に敬服するばかりだ。

私といえば、普天間基地の問題がメディアをにぎわすと、憤慨してみたりはするものの、日米関係のあり方が本質的に変化するなどとは期待していない。鈍感である。映像を目の前に突きつけられてようやく、想像力の貧困と、他者への共感を欠く自分というものを、あらためて認識させられた。

2010年8月11日水曜日

ドキュメンタリー

このブログのタイトル「違和感なしには生きられない」は、15年前にビデオで撮ったドキュメンタリのタイトルです。
ビデオそのものは、NHKのBS2で放送してもらって以来、見返すことがありませんでした。
最近になって、趣味を復活させようと「デジタルムービーワークショップ」なるものに通っています。
そこで古いVHSテープを引っ張りだしてきて、再生してみました。

テープの保存状態もよくないので、まともに再生できないのではと心配しましたが、なんとか見られます。せっかくの家族の記念なので、デジタル化しておくことにしました。
お暇でしたら、見てやってください。



順玉さんも若かったですね。


長くて申し訳ありません。

2010年7月29日木曜日

自己紹介

昨日は、UPLINKが主催する「デジタルビデオ講座」の1回目だった。
二人一組になって、自己紹介をたがいに撮影しあい、それから大画面のTVに映して全員で鑑賞した。

以前、「カルチャセンター運営」ワークショップに参加したときは、テーブルに向かい合った同士が、相手の似顔絵を描き、グループ全員に見せながら、他己紹介(推測をまじえ、印象だけで相手の紹介をする)をおこなった。「じつはこの方には、○○というとんでもない特技がありまして」とか「こう見えても、奥さんがすごい美人なんです」とか、けっこういい加減なことを言いあうので、参加者の緊張がほぐれて、すぐにいい感じの雰囲気になったのを思い出した。

自己紹介を撮影しあうというのは、撮る側はカメラマンであると同時に監督であって、どう演出するか任されている。そういう意味で、ある種の「他己紹介」と言えないこともない。楽しいひと時をすごすことができた。

渋谷まで来るのに、横浜で東横線の特急に乗った。うまい具合に座れたが、菊名でとなりの席が空くと、三人組のひとりが座り、かなりの大声でおしゃべりを始めた。男性一人、女性二人の、男性が当然のように座ったので、女性たちはすぐに降りるのだろうと思っていたが、武蔵小杉、自由が丘と来ても降りる気配がない。

「そもそもアンケートが水曜か木曜しか選択肢がないんだから」
「なぜか水曜なんだよね。土日とかないんだよ、けっきょく」
「京都のステージ、おぼえてる?」

聞きたくなくても聞こえてくる話をつなげると、これから、あるバンドのライブに行くところらしい。なかでもマサ氏に話題が集中している。

「あのときは、マサも意識しすぎだったよね。目を合わせてくれた?」
「とりバンでそんな意識するわけないじゃん。メリットないもん」
「おれは最初と最後に目があったな」
「うそ、私が目を合わそうとすると避けるのよ」

あまりにうるさいので「もうちょっと静かにできませんか」とのどまで出かかった。
むろん小心者の私はがまんする。

「最近、吹いてるときの腰の動きがさあ」
「変わったね。上下してるよね」
「意識してたら、できないしょ。無我の境地か」
「いえいえ、あれでさあ」
「曲が終わったあとの表情ね。わかってますって」
「ものうげな……」
「セクシーなオレ」

ふいにひらめいた。この三人組はほんとうはSEXの話をしているのだ。
その気になって聞いていると、すべてが隠喩にきこえてくる。
となりの男の名前が近藤だというのも、偶然ではあるまい。

おかげで、渋谷に着くまでの10分は空耳アワーを楽しむことができた。
むろん腹の虫もおさまった。

ハチ公前の交差点を渡り、坂をのぼって行くうちに、
「そうだ、アテレコもいいな」と思いついた。
ビデオでなにか作品を作らなくてはならないのだが、アイデアが浮かばなくて
困っていた。

アテレコなら映像とセリフが合ってなくてもかまわない。
音声を消してTVの画面を見ながら、勝手なセリフをしゃべる、あれだ。

――そんなことを考えながら、ここにやってきました。
よろしくお願いいたします。
私は相方のビデオカメラに向かって、頭を下げた。

2010年7月19日月曜日

目くじら立てないで

 ひさびさのお休みなので、寝床でごろごろしていたが、ビン、缶、ペットボトルを捨てる日なのを思い出して、起きることにした。ビン缶はなかったので、ペットボトルを3本袋につめて、三角公園の前の収集場所までもっていく。

 日差しがまぶしい。「さすがに夏だね」
 ビールの空き缶や清涼飲料水の容器でふくれあがった袋の山。
 てっぺんに、小さな袋をそっとのせる。

 家にもどってPCの前に座る。さっきより薄暗く感じられる部屋のなかで、問い合わせのメールに返事をし終わってさてと、窓を開けてみる。白日にさらされた廃棄物の小山が目に入った。
 はて?と見返してから思い出したとことがある。忘れないうちに書いておこう。

 ゴールデンウィークの旅の最終日、未練がましくフランクフルト空港のなかをうろついていると、なぜか人けのないロビーを見つけた。ひと息つくことにして近くの売店でコーラを買う。30分ほどかけて、スマートフォンで数日分の日記をつけ終わる。

 飲みかけにしていたコーラを飲み干してから立ち上がり、ペットボトルの表示のあるゴミ箱のところまで行って放りこむ。そのまま席にもどろうとした背後に人の気配を感じてふり向くと、あごひげの男がやってきて、捨てたばかりの500ミリのペットボトルを拾い上げて、リュックサックに入れて持ち去った。

 なんという早わざ。捨てるのを待ち構えていたかのようではないか。きっとそうなのだ。今か今かとやきもきしながら、どこかから私の様子をうかがっていたにちがいない。私が立ち上がって、ゴミ箱のほうに足をむけたとき、男は心のなかで「よっしゃ」と小さくガッツポーズをしたかもしれない。

 勝手がわからないおのぼりさんだろうと見当をつけて、気長に待っていたのだろうか。売店で買うときにデポジットの25セント(30円ほど)が加算されたのは知っていた。財布の小銭を減らすために買ったようなものだから売店まで足を運んで、25セントを返してもらうつもりはなかった。

 気づかないうちに観察されていたのは、よい気持ちがしないが、監視カメラだらけの今の世だから、目くじらをたてても始まらない。彼にささやかな喜びを与えることができたのなら、それでよしとしよう。

 私より一回り若く見える彼が背中にしょったリュックサックには、ふくらみ具合からして10本ばかりのボトルがつまっていた。いっぱいになるごとに交換に行くのかもしれないが、夕暮れ時がちかづくこの時刻までに、どれだけの稼ぎがあったものやら。

 ベルリンの街中でもビン集めの男を見かけた。公園のベンチに座っていると、自転車に乗った男がちかづいてきた。馴れた手つきでそばのゴミ箱をさぐって、何もとらずに去っていったが、自転車のかごに5、6本のガラス瓶が入っているのが見えた。身なりで判断をしたくないが、楽な生活をしているようには見えなかった。

 私は売店に行き、もう一本コーラを買った。
 席にもどり、封をきらずにそばにおき、また彼がやって来ないだろうかと、ちらちらあたりに目を走らせる。どこかからそっと様子をうかがっているのではないかと、そ知らぬふうを装いながら、神経をとがらせていたが、とうとう彼の姿を見つけることはできなかった。

 なにしろ空港は広いのだ。もうひとつのターミナルへ移動してしまったのかもしれない。「よかったら中味もどうだい」と言って手渡したかったのだが、そろそろチェックインをすませたほうがよい時刻だ。手をつけていないボトルをその場にのこして、荷物を背負う。

 「あいにく、体によくないそのアメリカの飲み物は苦手でね」
 男はそう答えるんじゃないか、そうしたら「ビールならOKかい」と一杯誘ってみるのも面白いだろう、などと想像をふくらませていた自分がおかしい。

 つまらない自己満足のために馬鹿なまねをするのは毎度のことだ。
思い出すたびに恥ずかしくなる。チェックインをすませて、JALのラウンジに入る。
「偽善と呼ぶのもおこがましいか」
ビールのグラスを手に、乾燥納豆をかじりながらつぶやいた。

2010年7月14日水曜日

機内サービスあるいは…

 そういえばこんなサービスに出会いました。

 フランフルトから成田に着き、帰宅せずに羽田経由で松山便に乗ったときのこと。
 乗客が全員席に着いた出発間際になって、見たところ70代なかばの老人が乗りこんできた。
最初からなんとなく不機嫌で、CAさんが荷物を棚に上げるのを手伝おうとするのに、
「私にだってできるんだ。背は低いけどな」と言って、バッグと手提げを渡そうとしない。

出発時刻をすぎているので、CAさんとしては、さっさと席についてほしいだろうに、
老人はわれ関せず。時間をかけて荷物を収納し終えて席に着いたと思ったら、
今度は「新聞をもってきてくれ」。
「あいにく今年の1月5日で廃止になりまして」
「けしからん。そんな話は初耳だ」でひと悶着が始まった。

 通路をはさんで私の斜め前、非常口そばが老人の席だった。機が動きだしても
老人の不満はおさまらない。老人と対面して着席したCAさんが
「いたらないことが多くて申し訳ありません」と声をかけると、ここぞとばかりに
JALの悪口を並べ立てはじめる。
「あんたらは客が求めてるのが何だかわかってないんだろ。教えてやるよ、早い、安い、安全だ」

 「それじゃあファストフードとかわんないよ」と突っ込みたくなるようなことから
「前の社長が何々をして、その前の社長があんなことをして」と、どこで聞きかじってきたのか、
というしたり顔の話がつづく。

 タキシングを始めていくらもたたないうちに機が停止してしまったので、
老人の独演会は止まらない。十数分たったころ、呼び出し音が鳴ってCAさんが受話器をとる。
「出発便が混雑していて、この機の離陸はこれから7番目になるそうです」
受話器をおいたCAさんが、申し訳なさそうに伝える。
 ため息のような気配があたりに広がるが、老人ばかりは意気軒昂だ。

 私の席からCAさんの顔が正面に見える。とてもチャーミングな方で、
老人の失礼な物言いにも、けっして笑顔をたやさない。

 「あんたねえ、スチュワーデスでしょうが。ちがうの? なんとかアテンダトとか、
気取るんじゃないよ」
 「どうして、そんなふうに思われるんですか。気取ってなんかいませんよ」
 CAさんは余裕の表情さえうかべて答える。

 「あんたらは知らんだろうが、エアホステスと呼ばれてたこともあるんだよ」
 いつの間にか、うれしさで老人の声がデレっている。

 ようやく離陸し、水平飛行に移ったが、気流の関係で、いつまでたっても
ベルト着用のサインが消えない。CAさんも席を立てない。老人には天国である。
 それでも、いつかはサインが消える。CAさんはにっこり微笑んで席を立った。
 前方でCAさんとチーフCAさんが言葉を交わすのが見えた。

 チーフがやってきた。お辞儀をしたあと、床にひざをついて老人の前にしゃがむ。
 「なんだ、あんた」老人はとまどった様子。
 「Sがとても有意義なお話をうかがったと喜んでおりました。よろしければ、私にもお聞かせ願えませんか」
 「チーフに言いつけるなんて、Sちゃんもひどいな。あんたに話すようなことじゃないよ」
 いかにもデキル女タイプのチーフのTさんに、老人も気後れしている。
 「どうしても駄目ですか。私もぜひ参考にさせていただきたかったのですが」
 「そこまで言うなら、話してあげるけど。あんたが話せというから話すんだよ」

 結論から言うと、このあと着陸前のベルト着用サインが点灯するまで、
チーフはその姿勢をくずさず、老人の話し相手をつとめていた。
 フランクフルト往復のFクラスの機内でも目にすることのなかった「伝説」のひざまずくポーズのまま、
およそ40分くらいものあいだである。

 話を聞いてもらえることほど、年寄りにとってうれしいことはない。
アルツハイマーの母との6年間で、私には身にしみている。
「元気なときになんでもっと会いに行って、話を聞いてあげなかったのか」という後悔の念がよみがえってきた。

 トイレに立ったついでにギャレーをのぞくとSさんがいた。
 「たいへんでしたね」
 「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうぞ空いている席に移って…」
 「感動しました。こんなすごいサービス、初めてです」

 着陸前にSさんがもどってきて着席した。老人は「チーフにもお礼を言われたよ」と
得意げである。着陸し、搭乗口で停止するまで、老人はご満悦でしゃべり続けていた。
 Tチーフがつきっきりだったのは、おそらく要注意人物から目を離したくなかったからだろう。
とにかく老人は満足だったにちがいない。

 病院に行き、私のことも見分けがつかない母につきそい、翌日の便で横浜へ。
 一週間後に母が亡くなった。そのせいか印象にのこるフライトだった。

2010年7月13日火曜日

飛行機好き

 母の四十九日で里帰りしました。新盆は弟にまかせることにして、とりあえず私はお役御免。様子見のための毎月の里帰りがなくなって、ちょっとさみしいのは、不謹慎かもしれませんが、もう当分飛行機に乗ることがないことです。

 マイルがたまったので特典航空券で、ゴールデンウィークにドイツ・チェコに出かけたのも含めれば、今年の搭乗回数は18回で、これ以上伸びないかな。子どものころからの飛行機好きで、学生時分は帰省するのに直行便に乗らないで、大阪、福岡などを経由して帰るなどという馬鹿なこともやっていました。

 2年ぶりのフランクフルト往復では、行きの便のキャビンアテンダント(CA)さんがなかなかよい印象でした。たまたま通りかかったCAさんに「いまどのへん飛んでるのかな」と聞くと、「シベリア上空だと思いますが、ただいま機長に確認してまいります」。わざわざ調べに行ってくれたうえ、地図帳をもってきて詳しく説明してくれました。窓の下になかば凍った湖が見えたので「あれがこの○○湖かな。絶景だけど、住みたくはないよね」とか、ヒマにあかせてつまらない無駄話をしても、いやがらずにつきあってくれます。

 食事のあと「調理を担当した○○です。お肉の焼き加減はいかがでしたか」と声をかけてくれたので、「○○さんなの! だったら食べる前に教えてほしかったな。こんな美人が作ってくれたと知ってたら、もっと味わって食べたのに」と、どうしようもないオヤジぶりを発揮しても、「んなこといっても、何もでないよ、お客さん」と返さないのがさすがです。

 お腹のところで両手をかさねて「おそれいります」お辞儀をする姿のなんと優雅なこと。私なんか生まれてから一度も使ったありませんよ、「おそれいります」なんて言葉。勉強になりました。

 JAL応援してます。がんばってね。

2010年6月25日金曜日

「ミッドライフ・クライシス」

 おととい、日経ビジネスオンラインで「男と女のミッドライフ・クライシス」という吉原真理さんのコラムを読みました。「ミッドライフ・クライシス」はアメリカではポピュラーな概念だそうです。日本語で言えば「中年の危機」ですね。

「あるときふと、「自分の人生はこれでいいのだろうか」とか、「こんなふうに、敷かれたレールに乗った人生を送ることが幸せだと言えるのだろうか」とか、「自分は妻/夫を本当に愛しているのだろうか」とかいった疑問を抱き始める。

 体力や容姿においても、20代のときの自分と比べるとあきらかな低下が見られるし、自分の能力を含めた現実をかんがみて、残りの人生でできることを冷静に考慮するようになる。そうしたことをいったん考え始めたら、焦りや圧迫感で、いてもたってもいられなくなる。それがミッドライフ・クライシスである。」


 なるほど。まさに私のことです。「中年の危機」と聞くと、うつとか不倫とか、なんだかやばそうなことを思い浮かべてしまう私ですが、「ミッドライフ・クライシス」のほうは響きがいいじゃないですか。映画のタイトルみたい。このさいどっぷり浸かってみましょうか、なんて気になっちゃうかも。ありふれたものだとわかったからといって、慰めにはならないわけで、いっそのこと開きなおっちゃおうじゃないですか。

 いえ「中年」にせよ「人生のなかば」にせよ、とっくに越えてしまってますよ。日々、老いを感じております。あせっております。この数年間、じょじょに記憶を失っていき、最後には私の顔も見分けがつかなくなってしまった母を訪ねるたびに、のしかかってきた苦しさは、母にたいする哀れみばかりではなかったはずです。自分の明日の姿におそれをなしていたのです。

 「ミッドライフ・クライシス」のご同輩たちがどういう症状を見せるのか、もう少し吉原さんのコラムから引用してみましょう。


 「まずは、やけに若作りな髪型に変えるとか、髪を染めるとか、急にジムに通って身体を鍛え始めるとか、強壮剤を飲むとか、シワ取りや整形手術をするとかして、身体的に若返ろうとするパターン。

 これと関連してよくあるのが、これまで子どもの送迎に使っていたセダンやステーションワゴンをコンヴァーティブルのスポーツカーに買い替えるとか、自転車で通勤することにして車を売ったお金でヨットを買うとかして、ライフスタイルの変化を主とするパターン。

 より本格的な人生改革としては、それまでの会社勤めを辞めて自分の店を始めるとか、高い収入や地位の専門職を捨てて教師や社会奉仕事業に転職するとか、それまで趣味でやっていた音楽や執筆を本職にしようとするとか、あるいは仕事を辞めてしばらく旅に出るとかいったケースもよくある。

 より自己破壊的な形のミッドライフ・クライシスの表出としては、アルコールや薬物への依存症といったものがある。

 圧迫感や鬱屈感の生産的な解消法が見つけられない男女がこうした道をたどる。また、中年期に入って急に性に目覚め、まるで気が狂ったかのように、相手を見つけては片っ端から性交渉をもつといった例もあるが、タイガー・ウッズの例に見られるように、これも一種の依存症である。

 そして、もっともありがちでかつはた迷惑なパターンが、浮気・不倫である。ひとまわりもふたまわりも年下の相手と浮気をするとか、出張先で知り合ったゆきずりの相手と交際を続けるとか、職場の秘書と関係をもつとかいったケースが多い。同窓会で昔の恋人や友達と再会し、焼け木杭に火がついてしまうこともある。」


 週に1回は家から仕事場まで歩いて行ったり、朝だけはエレベータを使わないで6階まで上がるというのは、ささやかですが「身体的に若返ろうとするパターン」と当てはまるかもしれません。今年になって5キロやせましたからね。「わるい病気にかかってるんじゃないの」とか、心配されたりすることもありますけど。

 一人で海外旅行にでかけたり、伊東先生のドイツ語講座に出席したり、7月から始まる半年間デジタルビデオ講座に申し込んだりしてしまうのは、「ライフスタイルの変化を主張するパターン」でしょうか。

 ありがたいことにアルコールや薬物への依存症はありませんし、浮気や不倫とも無縁です。一生に一度もそういう経験がないのはさみしい気がしないわけではありませんが、いまさら家庭の平穏をこわしてまで、そんなことをするほど元気ではありません。

 タイトルが「男と女のミッドライフ・クライシス」ですから、コラムの後半で吉原さんは夫婦のあり方について書いてます。


 「そうした最近の研究のひとつによると、お互いに強い「コミットメント」を抱いている幸せな夫婦にとって、そのコミットメントとは、必ずしも相手への愛情とか忠誠心といったものからのみ生まれるものではないらしい。

 むしろ、夫婦間の絆を強めるのに大事なのは、相手と一緒にいることによって、刺激的な経験ができ、自分の世界が広がり、相手のおかげで自分がよりよい人間になれるという気持ちになれると、お互いが感じられること、だそうだ。

 ある実験によると、なにかの課題に一緒に取り組み、困難を乗り越えて最終的に目標を達成したカップルは、そうした経験を共有していないカップルよりも、お互いへの愛情や満足度が高くなる、との結果が出ている。つまり、結婚生活を強化させようと思ったら、問題を避けて平穏な暮らしを送ろうとするよりも、夫婦で一緒になにかにチャレンジし苦労を共有することのほうが効果的だ、ということだ。」


 なんか納得ですね。でも「刺激的な経験ができ、自分の世界が広がり、…よりよい人間になれるという気持ちになれる」というのは、夫婦関係にかぎりません。ミッドライフ・クライシスまっただ中の私が、一人旅をするようになったり、講座に参加して趣味を広げようとしたりするのも、まさに潜在的なこうした欲求の表れだと感じます。
 
 やせ馬にまたがって風車に突撃するようなもので、傍から見れば滑稽でありましょう。それは承知のうえで、自分を感動させるくらいのことはできるのではないかと、願うばかりです。

2010年6月18日金曜日

「20歳のときに知っておきたかったこと」

こんな歳になって気恥ずかしいのですが、自己啓発書の類を読んでいます。若いころは手に取る気にもなれなかったのに、むしろ毛嫌いしていたのに、格好をつけてたんでしょうね、若いころに読んでおけばと思いますよ。

読んでも読まなくても、今さらきょろきょろしない大人になれていれば、よかったのですが。せめて「こんなオレで何がわるい!」と開きなおる度胸があればまだしも。情けないですね。
今朝読み終わったのが「20歳のときに知っておきたかったこと」。著者のティナ・シーリグさんはスタンフォード大学で起業家育成コースを担当しておられます。その演習で出される課題がユニークです。どうすれば無から価値を生み出すことができるかといった難題に、学生たちが挑戦します。出題する側もあらかじめ答えを用意しているわけではありません。成果を上げるには発想の転換が必要です。

具体例はあげません。興味のある方は書店で手に取ってみてください。でも「私もこんな授業を受けたかったな」などとつぶやいたら、ティナさんに叱られますよ。「チャンスは無限にあります。いつでも、どこでも、周りを見回せば、解決すべき問題が目に入ります」「いまある資源を使って、それを解決する独創的な方法はつねに存在する」なのですから。

「ようするにビジネス系啓発本でしょ? ちょっとうさんくさい、あれね」と思われる向きもあるかもしれませんが、金儲けを成功の尺度にしている本ではありません。

「従来の考え方に閉じこもり、ほかの可能性を排除するのは、信じがたいほど楽なものです。周りには踏みならされた道にとどまり、塗り絵の線の内側にだけ色をつけ、自分と同じ方向に歩くことを促す人たちが大勢います。これは、彼にとってもあなたにとっても快適です。彼らにとっては自分の選択が正しかったことになり、あなたにとっては、簡単に真似できる秘訣が手に入るのですから」

この言葉にどきっとしました。年齢のせいかもしれません。亡くなった母の日記帳を何冊か、田舎からもってきました。30年分ほどの日記帳を見つけましたが、驚いたことに一昨年の分までありました。アルツハイマーが発症してから、年賀状すら来なくなり(筆まめだったのに)、大好きだった家計簿もつけなくなりました。ですから日記を書き続けていたとは想像もしていませんでした。

その母がちょうど今の私の年頃だった30年前の日記に、これからは自分を高めるような生き方をしなくてはならないと、一遍上人やら瀬戸内寂聴やらの言葉を引きながら、かなりの意気込みで書きつけてあります。なんとも血は争えないものです。

しかしその後の日記を飛ばし読みすると、せっかくの覚悟のほどが、どれだけ成果をあげたものやら、長続きしたものやら、母には申し訳ないながら、……はっきり書くのはよしましょう。
私もきっと母と同じ道をたどるのでしょうから。

2010年6月17日木曜日

なんだかこのところ

 2ヶ月ほどのあいだ、私としては忙しい日々が続いていました。といっても2週間のヨーロッパ旅行と母の死にまつわるあれこれを除くと、家と仕事場を往復するだけの毎日です。ですが意識は澄みわたり落ち着き払っているにもかかわらず、意識にならない心の深みであせりといらつきがゆれていて、胃のあたりがむずむずする感じが消えません。

 この6月に誕生日を迎えて、父が亡くなった歳を越えることができました。その数日前、まだ父の最期の歳のうちに母が息を引きとったのも、母らしい心づかいのように思えます。私が楽しみにしていた旅行からもどるまで、待っていてくれたのか、亡くなった翌週にはやはり心待ちにしていたコンサートがあって、その前にとあわてたのか、とにかく突然の、旅行前に病院で「あと数ヶ月は――」と聞いていたのに、せっかちに逝ってしまいました。母にはどちらのことも話してはいなかったのに、なんとまあタイミングを見計らったように、そこまで気をつかってくれなくていいのにと、切なくなりました。