2009年1月13日火曜日

シュタージ文書の閲覧申請

ドイツ訪問のひと月ほど前に、シュタージ(国家保安省)の報告書の閲覧を申請してみた。申請そのものはむずかしくない。シュタージ文書を管理している役所(BStU)のHPから申請用紙をダウンロードして、必要事項を書き込んでからドイツ大使館で認証してもらい、郵送すればよいだけである。うまくすればベルリンに滞在中に閲覧できるかもしれないという目論みだったが、もっと早く申請しておくべきだったようで、10日ほどで受付けたという手紙が届いたものの、私に関する報告書が現存しているかどうかの通知は、出発までに届かなかった。

通知は帰国後2週間たってから届いた。結論としては、見つからなかったということで、いくらかは期待していたので残念だった。しかし見つからなかったということが、かならずしも報告書が作成されなかったということを意味しているわけではない。壁が崩壊してから、シュタージは全力で機密文書を焼却したりシュレッダーにかけたりしたのでかなりの文書が失われてしまっている。シュレッダーにかけられた紙片の復元も試みられているが、膨大な量なので復元し終わるまでに数百年かかるだろうと言われているほどだ。

特定の容疑者だけでなく、一般の市民の多くもシュタージの監視対象になっていたことが今ではよく知られている。資本主義国からやってきた外国人である我われは、当然対象になっていたはずだ。電話をするたびに混じるかすかな雑音は、日本語で話し始めると途切れてしまうが、ドイツ語だと最後まで聞こえていたし、宿舎の部屋においてあったベルリンの壁を西側から写した写真集は、いつの間にか消えてしまっていた。雇っていた東ドイツ人の運転手は、30代の口ひげをはやしたビール腹の気さくで陽気な男だった。とはいえ私たちを乗せて検問所を越え、西ベルリンと私たちの町を自由に行き来することができる彼が当局の関係者であることは、日本人全員が承知していた。

なかでも私のように頻繁にドイツ人の同僚たちの家を訪問したり、東ドイツ内を気ままに旅して回ったりしていた外国人に、シュタージが関心をもつというのはありうるだと思う。もし「報告書」が存在していて、それを読んでからアイゼンヒュッテンシュタットを訪れ、旧EKOで同僚たちと再会していたとしたら、なつかしくて愉快な一日をすごせただろうか。シュタージの活動があばかれている今となっては、報告者の氏名欄に、もっとも仲がよかった同僚や女友だちの名前が記されていても、驚きはしない。それでも再会した何人かのうちの一人が報告者だったら、お互いにそんなことは知らないふりをしてカフェのテラスでおしゃべりをし、別れぎわには抱き合ってという思い出が、一味ちがったものになったのはまちがいない。

注)BStU=die Bundesbeauftragte fuer die Unterlagen des Staatssicherheitsdienstes der ehemaligen DDR