2008年11月29日土曜日

旧EKO見学中・後編



冷間圧延工場を見学したあと、やはり私たちが建設した電気室、コンピュータ室の建屋に向かった。
コンピュータ室で、またもなつかしい顔に再会。当時は電気工学の大学院生だったアンドレアス・ポロックは研修のためにプラントに派遣されていた。いまでは冷間圧延工場の電気の責任者だという。
数年前の改修にあたっては、制御システムを独力でプログラムを組んで改善したとのこと。


左は取材に来た地元紙の記者ヤネット・ナイザーさん、右は当時契約をまとめる責任者だったクラウス・プフレーギング氏。






電気室の床板のいずれかの裏側に私の落書きが残っているはず。

このあと、どこを見たいかとたずねられたので、新鋭の熱間圧延工場を見せてほしいとたのんだ。
現在このコンビナートの主力である熱間圧延工場まで、車で移動。
ドアをくぐるごとに開錠と施錠をくり返すものものしさだったが、幸いビデオ撮影を許可してもらった。
一番上の動画がそれ。
500mに渡って熱い鋼板が流れていく様は壮観だ。動画はかなり省略して縮めてある。
数人の作業員で操作をしている様子を目にすると、多くの人たちがリストラされてしまったことが
いやでも理解させられた。

2008年11月13日木曜日

旧EKO(現ArcelorMittal Eisenhüttenstadt GmbH)見学中



EKOでの仕事が決まるまで、私は「あつえん」などという言葉を耳にしたこともなかった。なもんで念のために、ちょっくら解説を。冷間圧延は、製品(鋼板)の厚みの調整や、表面の仕上げをする工程だ。「鉄は熱いうちに打て」というが、ここでは冷たい板をそのまま扱う。そのためロールにかける圧力は1cm2あたり2百トンにも達するとか(記憶がおぼつかないので、まちがっているかも)。この圧力調整は油圧でおこなわれている。縦横に油圧配管が張りめぐらされた床下のオイルセラーも見ものだが、今回は時間
の都合でパスするほかなかった。

ちなみに建屋の反対側にあるソ連製のタンデム圧延機は、電動モーターでネジを巻くようにして圧力をかける仕組み。当時も相当古ぼけていたが、こちらも現役と聞いてびっくりした。青いカバーで覆われていて本体を目にすることはできなかった。

写真1.6Hiミルはフードの色が青に変わっている。
写真2.改修後の制御盤(昔よりカッコいい)。
写真3.圧延機の内部(放射能のマークは厚み計が放射線計測をしているから)

20人いた当時のオペレータで、今もこの工場にとどまっているのはベルント・シュナーベル一人だけ。当時から高炉の火は消えたままだったが、製鉄所らしく年中無休の4班3交代勤務だった。どの班も男4、女1の構成で、圧延機の操作にあたるのは男子のみ。女性の職場進出が進んでいる東ドイツにしては、ちょっと不思議な感じがしたものだ。ベルントによると、ほかのオペレータたちは、統一後、ほとんどがこの町を去ってしまったとのこと。みんな若かったから仕方あるまい。親しかったSさんの消息をたずねてみたかったが、二人の関係はだれも知らないはずだからと思いとどまることにした。

2008年11月11日火曜日

EKOあれこれ



再訪した旧EKOの様子をすこしだけ書きとめておきたい。取り壊されてしまったカンティーネ(食堂)のわきから地下道を通って冷間圧延工場へ向かう。

写真1:地下の連絡通路。スローガンのたぐいが消えたせいか、なんだかすっきりしている。



コイルヤードは静まりかえっていた。以前は、コイルを移動させるために天井クレーンがしじゅう動き回っていて、ずいぶん活気があった。猛禽のようにすばやく舞い降りてきて、一本爪のフックをコイルの穴にとおして軽々とさらっていく。けっして停止したりはしない。見事な早わざだった。

(コイルというのは鉄板を巻き取った巨大な「トイレットペーパー」状のもの。もう少しきれいな言い方だと「バウムクーヘン」。直径は人の背が隠れるほどもあり、重量は20トンと軽戦車なみ)

運転手はたいていオバちゃんで、下から手をふると警笛であいさつを返してくれた。冗談のつもりで「運転させて」と頼んだら、「上っておいで」。運転席から眺めると、地上はまるでコイルの畑だった。マークを書きこむ作業員はかくれんぼをしている虫みたい。

「下の連中をピンの代わりにして、コイルでボウリングをしてみたいと思ったことあるでしょ?」

「ないわよ」

「ほんとかな。夫婦げんかした日とか―― 正直に言ってみて」

さすがにコイルを吊らせてはもらえなかったものの、となりのクレーンにぶつからないよう移動させたり、フックを左右に動かしたり、しばらく遊ばせてもらった。

写真2:コイルヤード。以前とは並べ方が異なっている。かつてのようにバンドがはじけてボヨーンとなった錆だらけのコイルは見当たらない。
写真3:圧延機棟の天井クレーン(背後にも1台)とコイル

コイルヤードが薄暗いのは、となりの圧延機棟とのあいだに壁がつくられたせいもある。 壁がオペレータの詰め所の上を横切っているので狭苦しいでっぱりになってしまった。あそこでは閑なおり、ときどき昼寝をさせてもらった。試運転が始まってからは、休憩時間にオペレータたちとコーヒーを飲みながらおしゃべりにふけった思い出の場所だ。

写真4:青い壁で分断されたオペレータ詰め所

着任した日、工事長がみずから現場を案内してくれた。新品の安全帽に安全靴、作業服がくすぐったかった。工場に足を踏み入れると工事長が立ち止まってひと言。
「これだけは言っておく。けっしてケガをするんじゃない」
まだブロックがむきだしで、中もがらんとした詰め所まで来ると、工事長はさらにつけ加えた。
「ケガをするくらいなら、仕事しないで、ここで昼寝でもしていてもらったほうがありがたいんだ」

各部署をまわってあいさつをしている途中、うっかり玉掛け(吊荷)の下を横切ろうとして、さっそく「バカモノ!」と一喝された。なんでそんなに神経質なんだろう? 理由はあとで先輩から教えてもらった。工期を守ることが最優先なのに、人身事故がおきると警察の現場検証や安全対策の確認などで何日も工事が中断される。それをなによりおそれているのだ。

じっさいその後、工事が山場をむかえると、徹夜の突貫工事がつづくようになる。人身事故については、一度だけ不幸な事故がおきて、工事がストップしてしまった。

2008年11月8日土曜日

わたしのアイゼンヒュッテンシュタット



1989年以来この街はすっかり変わってしまったと、だれもが口をそろえて言う。もちろんそのとおりだろう。しかし私の実感としては「変わってないな!」である。泊まるつもりでいたインターホテル「ルーニック」やなつかしいディスコ「アクティビスト」は廃墟になっていた。製鉄所の正門があったあたりには「バーガーキング」が開店している。通りで見かけるのはVWやアウディ、トヨタやホンダ。でもそのほかは見事になにも変わっていない。すくなくとも表面的には。

住居の多くはペンキで化粧をされていくらか若返って見える。そのせいで、かえって時の流れを逆もどしにされたような変な錯覚をおぼえてしまう。
我われと下請けのユーゴスラビア人作業員の宿舎だったAWH3(Arbeiter Wohnheim 3)も外観はそっくりそのままだ。通りの名前もあいかわらずKarl-Marx Str.である。

玄関から通勤着姿の仲間たちがあらわれて「今晩アクティビストつきあってくれる?」などと話しかけられても、きっと不思議な気がしないだろう。
並んでバス停に向かって歩きながら「きょうはマグネットだよ」と答えるは、やはり20代の私のはずだ。ふわりと空気がゆらいで、日差しのなかに酸洗塔からはきだされる錆びのにおいが香った。

「ディズニーランドに行くと俺なんかでも童心にもどっちゃうんだよな」などという言葉を聞いても、ばかばかしいとしか思わなかったが、生活にくたびれはてた中年男が異世界の魔法にとらわれるってことはあるのだ!とわが身で実感。無邪気な話――だろうか。考えすぎかもしれないが、無意識のうちにでも自らが望んでしまえば、どんなドグマでもオカルトでもつけこまれかねない。すぐに悲観的なことと結びつけて考えるのはわるい癖です。

2008年11月7日金曜日

思えば遠くにきたものだ



今年の6月2日に22年ぶりに再訪したアイゼンヒュッテン市で「Die Märkische Oderzeitung」という地元紙の取材を受けた。その記事が今ごろになって届いたので、記念にここに貼り付けておこう。どうでもよいオシャベリをそのまま記事にしてしまうところが、いかにも田舎町の新聞らしくてのどかである。気恥ずかしいが、わざわざ読んでみようという物好きもいないでしょう。

2万人近くもいたコンビナートの従業員も今では3,200人ほどに削減されてしまったとのこと。社名も今ではEKO(Eisenhütten Kombinat Ost)から世界最大の製鉄コンツェルンであるアルセロール・ミタルに変わっている。旧東ドイツ地域の多くの企業が閉鎖されてしまったことを思えば、操業を続けているだけでもよしとしよう。

私たちが建設にたずさわった冷間圧延設備が今でも現役だったのはうれしかった。わずかしか残っていないかつての同僚たちがそろって出迎えてくれたのには感激した。「電源室の床板の裏に、なんて落書きしたんだっけ、お前さん」などと、すっかり忘れていたエピソードが次々にくり出されるのを聞いていると、こんなところに私のことを覚えてくれている人たちがいるということが、なんだか信じられなくて、もう少しで涙ぐんでしまうところだった。