2011年6月16日木曜日

「ソウルのバングラデシュ人」の感想

大阪、名古屋に続き、東京で開催されている「真!韓国映画祭2011」で「ソウルのバングラデシュ人」を観た。
バングラデシュ人の出稼ぎ労働者カリムは賃金の不払いのせいで仕送りができず、故国の家族と断絶のせとぎわにある。カリムはコンビニで韓国人どうしの喧嘩の仲裁に入ったばかりに警察署に連行され、濡れ衣をきせられたあげく酔っ払った一方の当事者から「お前たちのせいで仕事がない」という言葉を投げかけられる。女子高生ミンソの母親の恋人も失業中。ミンソが夏休みに英語塾に通う月謝代ほしさにカリムの財布を持ち逃げしようとしたのが二人の出会いである。ミンソはバイト先でトラブルをおこし警察署でカリムと再開する。彼女はその後、風俗店でアルバイトを始める。

導入部のあらましを書き留めるとこんな具合だ。カリムが好青年なのにたいし、ミンソはおおいに問題がありそうに見える。韓国人の外国人労働者にたいする差別意識があらわれる描写のなかで、ミンソもまた偏見の持ち主として描かれる。カリムがバスの中で席をあけて座らせようとするのを無視し、並んで歩くのをいやがって3メートル離れて後からついてくるように言うほどである。(物語が進んで二人が絆を深めるにつれて、カリムの強制送還を避けるため、ミンソは結婚まで口にするようになるのだが)

社会のアウトサイダーと気のつよい少女との出会い。緊張感を和らげるアイロニカルな笑いと、切ない余韻を残す結末。どこかで見たスタイルである。カリムに狼の皮をかぶらせて人物像に深みをもたせ、画面に緊張感を加えればヤン・イクチュン監督の「息もできない」ではないか。

韓国映画に登場する「気のつよい少女」は魅力的である。
この作品の舞台を日本に置き換えてみるとしよう。韓国社会と日本社会には共通点が多い。ここに描かれているアジアからの出稼ぎ労働者を見下し、白人には媚びる性向などは日本人にもそのまま当てはまる。受験競争の激しさは韓国ほどではないものの、教育の機会と経済格差の問題は日本でも表面化している。それでは「気のつよい少女」ミンソを登場させて、リアリティは得られるだろうか。

私の想像の範囲ではかなり違和感がある。
極端な気のつよさを観客に納得させるには、ツッパリ系不良少女にしてしまうか、男を手玉にとるほどの色気または才気の持ち主にしてしまうか。あるいは、なぜかやたらと腕力が強い「ラブファイト」の亜紀、「ごくせん」のヤンクミのようなキャラにしてしまうほかないのではないだろうか。

つまりただの女子高生ではなく、強気の拠りどころとなる特性を備えている必要がある(ヒロインを引き立てる可愛げのない女という設定であれば別だ)。しかしミンソや「息もできない」のヨニには、そういう持ち味が付加されていない。どこにでもいる高校生である。とりたてて腕力もないのに、見ず知らずの男(ヤクザや外国人)にたいして一歩もひかない。殴られたり引き倒されたりした後ですら、おびえた表情を見せない。

「あなた、自分のやっていることがわかってるの!?」のように居丈高な物言いをして、倫理観で優位に立とうともしない。
ただ気質として気がつよいだけの少女が、それだけで魅力的な存在だ。

よけいな拠りどころを持たない「気のつよさ」が魅力的なのは、これらの作品を撮っている監督たちが、そういう少女を魅力的だと思っているからだろう。
ストーリーが展開するにつれて、少女は別の面を見せる。傷ついた内面から暖かさややさしさ、孤独や正義感などがにじみでる。そして男女は惹かれあう。そこに着目して「気の強い」女性が「男に都合のよい」女性へ変化したと見なせば、いささかジェンダー的に問題視するような捉えかたが可能かもしれない。

しかしそういう見方はとりたくない。少女らは男の意思にしたがって「変身」するのではない。関係性が深まるにつれて内面に変化が見られるというなら、男のほうもお互いさまである。それ以前に一本気な性格が、それだけで魅力的に描かれている。それは女性に「可愛げ」が求められていることへの反乱であり、そこには損得を超えた無鉄砲さにたいする爽快感がある。
こういう印象をもつのは日本人特有のものだろうか。男性特有のものだろうか。あるいは私だけの特殊な感想であろうか。
ミンソやヨニは韓国の人たち、女性たちの目には、どのように映るのだろうか。そのあたりを知りたいところだが、それはさておき、「気のつよい少女」が映像のなかの韓国にしっくり馴染んでいるのはまちがいない。そこに韓国らしさがあると観るものを納得させるだけのものがある。画面から伝わってくる韓国社会の魅力がある。

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