2009年10月4日日曜日

コンサートに行ってきました

大田区民プラザであった李政美さんのコンサートに行ってきました。
チケットをいただいた大宮さんほどの大ファンではありませんが、好きですね。
聞きほれてしまいます。
初めて李さんの歌声を聞いたのは、7、8年前に開港記念館でなにかの集会があったおりです。 3、40人くらいの小さな集会に、ゲストとして伴奏のギタリストの矢野さんと来られてました。
最初に歌ったのが「京成線」で、そのあと何度か行ったコンサートでも、いつも最初のほうにこの歌を歌ってましたが、きのうは最後の曲でした。
オリジナル曲よりカバー曲が多く、それも欧米の曲がフランス、ポルトガル、ブラジル、アメリカとバラエティに富んでいて、私には新鮮でしたね。
アンコール曲の「What A Wonderful World」のメロディを口ずさみながら帰りました。

伴奏の佐久間順平さんがまた、いい味をだしてました。
お顔を拝見するのは、高田渡さんのコンサート以来なので、なつかしかったです。
ひげがなくなっていて、ちょっとびっくり。

一昨年の3月、上大岡の「ひまわりの郷」に聞きにいったときのことを思い出します。
母親の葬儀をおえた妻がソウルからもどってきたのがコンサートの前日で、誘うのも気が引けましたが、いっしょに行くと言ってくれました。
その日はなぜか「あなたの墓のそばに」「遺言」「イマココニイルヨ」といったしみじみとした曲が多くて、 涙ぐむのをこらえるのがたいへんでした。

2009年9月25日金曜日

田舎の秋

連休を四国の田舎ですごしてきた。秋晴れの縁側でぼんやりと柿の木などをながめてと、
そういうお休みならよかったが、母の介護であれよあれよの3日間だった。

アルツハイマーを発症したのが5年前。今年の春先くらいまでは、少しはつじつまの合う話が
できていた。とりわけ様子が変わったのはこの数ヶ月だ。
入れ歯とメガネの区別がつかなくなって、見当たらなくなった入れ歯がはいっていたはずの
容器に、「この入れ歯がここに入ってたでしょう」と言って、めがねを入れようとするので、
「それは入らないよ、メガネだから」と言うと、そうかねと返事をしても、
やはりメガネが気になる様子。
本人ももどかしいようで、何かが見つからなくなるたびに「こんなこと初めて」
「頭がへんになりそう」などとつぶやいている。

「さきに入って」と言って風呂を沸かしてくれたのはありがたいが、しばらくして私が
見に行くと栓をしていない、しかも蛇口からはお湯ではなく水が出ている。
自動湯張りにして、そろそろという頃、テレビを見ている私の前を横切って、
下着姿の母が風呂場に向かう。そんな姿を私に見せることは、これまでなかったのに。

母のあとで入浴し、風呂から上がって出てくると、母は玄関に立っていて、
ドアを開け外をうかがっていた。
「だれか来たの?」
「車であの女の人が」
私はすばやく頭をめぐらす。「デイの人はもう帰ったよ」
「どこに?」
「アスレに帰ったよ」アスレというのは母が通っているデイサービスの施設の名前だ。
はっと気がつくと母は下半身なにも身につけていない。
「無事に着いたと連絡あった?」
「そうそう、あった、あった。だから心配しないで」
居間に連れ帰る。

「カレンダーの29日のところに、ヒデオと書いとるね」
「22日のところね」
「きょうは何日?」
「23日」
「ヒデオはどうしたんじゃろか」
「帰ってきてるでしょ」
「誰が」
「ヒデオが」
「ヒデオはいつ帰ってくるの?」
「私がヒデオだよ」
「あんたがヒデオちゃん?」
「タツオだと思った?」
「そうだねえ。おかしいねえ、タツオはまだ小さいのに」
「40過ぎたおっさんだよ」


なによりも様子がちがうと感じたのは「いつもいつもみんなに大切にしてもらって、
ほんとうに幸せ、私みたいに幸せな人間もいないよね」という口癖が出なくなってしまったこと。
むろん自分に言い聞かせているようでもあったし、息子に心配をかけなくないという
思いもあっただろうが、そう言うときの顔は、にこにこと幸せそうに見えた。
とにかく辛いとか苦しいとか、一人暮らしが寂しいとか、そういった愚痴をもらすのを
聞いたことがなかった。
「お母さんが元気で幸せでいてくれるから、助かるなあ。ほんとにありがたいよ」
と私のほうから水を向けると
「幸せじゃないよ」という答えが返ってきて胸をつかれる。
「楽しいことなんか何もないし。おいしいものもないし」
「ヘルパーさんはよくしてくれる?」
「さあ、どうかねえ」

それでも一晩いっしょにいて、次の日散歩がてら、うどん屋へ。その帰りに、
ようやく「みんなから大事にしてもらって、幸せもんだと思うのよ」という言葉が聞けた。

いつもそばにいてあげることができれば、症状の進み具合を遅らせることもできるのではないか。
ケアマネージャーのIさんに電話をして相談する。「30年もその家で一人暮らしをしていますからね。
だから何とかやっていけるんです。横浜なんか行って環境が変わったら、まちがいなく進行しますよ」
そうかもしれない。だけどそうじゃないかもしれない。
「それよりもっとしょっちゅう会いにきてあげたらどうですか」

たしかに2ヶ月に一度などといわず、毎月、あるいは月に2回来られれば! 
無理をすればそれくらい、と思いつつも、頭のどこかで、自分の今の生活をできるだけ
守りながらだと可能なのは、などと計算している自分がここにいる。

2009年9月8日火曜日

夏休み パッピンス

「スッカラ」9月号をめくっていると「トゥラン」というお茶屋さんの記事が目についた。
写真のパッピンスがとてもおいしそうだった。
ゆず茶ピンスと緑茶ピンスがあって「それぞれゆず茶や緑茶を凍らせた氷を削っており、
氷そのものから深い味わいが楽しめる」というのも良さそうだ。
しかも地図でたしかめると、ホテルからせいぜい徒歩10分のところらしい。

カミさんのすぐ上のお姉さんが大邸から上京したついでに、会いに来てくれたので、
昼食のあと3人ででかけた。(ちなみにホテルの一階のレストラン(入り口は別)で
食事をしたのだが、この店もたいへんおいしかった)

ホテルの東側の広い道を渡ると、観光客の姿は消えて、下町の雰囲気が濃い路地があらわれる。
地図どおりに2度ほど折れ曲がって進んでいくと「トゥラン」があった。
思っていたよりこじんまりとした伝統的な家屋を改装したお店だった。

扉を開けるとやさしい微笑をうかべたキム・エランさんが、迎え入れてくれた。
ほかにお客さんがいないので、中庭に面した席でくつろいでいると、写真で
見たとおりのパッピンスが登場。ナンジュ義姉さんのゆず茶ピンスもおいしそう。

エランさんもいっしょに記念撮影。韓日合作映画「カフェ・ソウル」で中心的な
役割を担っている伝統菓子店「牡丹堂」は、このお店が撮影現場だとか。
写真集を見せてもらったけど、映画もなかなかおもしろそう。

お店の電話番号 02-745-7420 URL http://cafeaeran.com

2009年9月6日日曜日

夏休み 仁寺洞のホテル2



初めて歩く夜の仁寺洞は、子どものころの縁日を思い出させるにぎやかさ。
しばらく冷やかして歩いた後、北側のはずれにある釜飯屋さんで夕食。
五目釜飯ときのこ釜飯、焼き鳥2本を注文しました。
釜飯の味付けはすこし甘めで、日本的な香ばしさにはやや欠ける感じ。 焼き鳥はねぎま。かなりおおぶりで串の長さが20センチほどもあるのに竹串が細くてぽよーんとしなります。折れそうで折れないところが、なかなかのもの。
ホテルのななめ向かいのセブンイレブンで、ビールおつまみを買って帰り、 リビングで持参のDVDを観てから就寝。

ホテルの朝食は豪華とはいえませんが、私としては満足のレベルでした。
卵料理がスクランブルのほかにもう一品、ゆで卵、目玉焼き、ポーチドエッグと いったふうに毎朝ちがったものがでます。お惣菜やフルーツも少しずつ変化があります。
シリアルは甘くないの甘いのが合わせて3種類、クルミとアーモンドを好きなだけ入れられるので、ちょっと贅沢な感じかな。

朝食のダイニングとガラスで仕切られた向こうに室内プール。
腹ごなしにひと泳ぎすることに。更衣室のロッカーは暗証番号を設定するタイプなので、 手首にキーバンドを巻く必要なし。
サウナや大浴場を素通りしてプールへ。

貸切り状態のプールは水が透き通っていて、ときどき出かける○○区スポーツセンターのプールより気持ちがよい。水温も28℃といたって快適。 全長は17,8メートルくらい、深さは1.5メートル。
ほかに子ども用のプールとジャグジーがあるのもよいですね。
とはいえ、ジャグジーは薬くさくてお湯がべたつく感じがしたので、入ったのは一度だけでした。

2009年9月5日土曜日

夏休み 仁寺洞のホテル1

3年ぶりに韓国を訪れ、夏休みをすごしてきました。
ソウルではホテルに4泊。なかなかよいホテルだったのでご紹介します。

これまではカミさんのお姉さんの家でやっかいになることが多かったのですが、
なにもしないで、ぼうっとしていられるリゾート気分の夏休みという私の希望を
優先させていただきました。

ゆっくりとくつろげて、プールやフィットネス、ジャグジーも完備、
(地下鉄に乗らなくても)気持ちのよい街歩きができて、おいしい食べ物屋さんが
すぐに見つかる、夜は静かで、持参したDVDが再生できる、
それでいて料金はリーズナブルというのが最低条件でした。

ちょっと虫がよすぎるかなと自分でも思いながら、ホテルの予約サイトで検索していると、
……ありましたよ。「フレーザースイーツ」。仁寺洞の通りに隣接していて、
鍾路3街駅から徒歩3分という立地です。
営業開始が2002年ですから、まあ比較的新しいといってもよいでしょう。

こちらのホテルの1ベッドルームを予約。
寝室、リビング、キッチンがそれぞれ独立しているコンドミニアムタイプです。
「一泊11,200円」も部屋単位の料金ですから、わるくありません。
ちなみに朝食付きの値段です。カミさんが気にしていたドライヤーとアイロンも備えつけです。http://hotel.konest.com/hotel_detail.html?h_id=fraser_suites

初めてのインチョン空港(広いです)には、義兄が迎えてきてくれていました。
走っているあいだ、しゃべり続けているカーナビが珍しく、またたく間に市街へ。
いよいよホテルに到着。スムーズなチェックインですが、日本語は通じません。
部屋でのインターネットは有線でも無線ランでもOK、しかも無料で使い放題とのこと。
カードキーを渡されて部屋へ。

エレベータはカードキーを差し込まないと動かないと聞いていましたが、
差し込んでボタンを押しても動かない!
レセプションに引き返して文句を言うも、「いったん差し込んでから、すぐに抜く。
それからボタンを押す」という手順を理解していなかったことが判明。

無事エレベータも動いて、5階の部屋に入ると「広ーい!」。
夏休み期間中だというのに、2ベッドルームにアップグレードされてました。
予約時に高層階を希望していたのにと、ちらりと胸をかすめた不満もいっきに解消。
じつは成田からの飛行機も、思いがけずエグゼクティブクラス(ビジネスクラス)に
アップグレードされていました。

「たまにはこんなことがあってもいいよね」
「むしろ明日からがこわい」
点検をしながら部屋から部屋へ。

主寝室はダブルベッド。サブはシングル2台のツイン。バスルームがふたつ。
ひとつには浴槽とシャワーブースがあり、もうひとつはシャワーブースのみ。
リビングは20畳ほどあり、窓からの眺めはなかなかのもの。
全体の広さは100平米ほどだろう。
テレビはリビングと主寝室にあり、どちらも21型のブラウン管タイプ。
NHKの衛星放送が受信可(アナログ)。
台所には、家庭にあるような冷蔵庫、オーブンレンジ、トースタ、湯沸しポット、
食器類、包丁や栓抜き、ふきん、洗剤までそろっているので、
食材さえあれば、すぐに調理が可能です。

荷解きをすませから、暗くなった街へとくり出しました。

2009年9月4日金曜日

一喜一憂(3)


またまた続きです。

7月に小池龍之介さんという禅のお坊さんの話を聴きました。
いろいろと話してくれたのですが、印象的だったのは子育てについてです。

子育てで肝心なのは――
エアコンの音にかき消されそうな、ささやくほどの声量ながら、
けっして言葉を聞き違えることはない、よく届く声でした。

ほめない、叱らない
喜ばない、がっかりしない

禅問答のたぐいかと思いましたね。
この戒めは、わたしがこれまで耳にした子育て論とは、かなり異なっています。
さっそく「それでは何をすればよろしいのでしょうか」と質問いたしました。

どんなことにも揺るがずに、見守り続けること

こそりとした言葉が返ってきました。
それから、子どもは親の顔色をうかがって、いい子を演じようとする。
そして大人になってから、親を憎むようになる、といったことをつけ加えられました。

子どもの態度や成績にたいして、親が一喜一憂していたのでは、子どもが
うまく親を喜ばすことができるにせよ、親の期待に応えられないと自責の念に
かられるにせよ、ほんとうの信頼関係は生まれない、ということのようです。

どういうことでしょうか。
完全にのみこめたわけではありませんが、なんとなく思いあたることがあります。
成績のよい娘が、よい点数のテストを持って帰ってくると、当然ほめました。
たとえ息子が悪い点数をとったとしても、叱ったりはしないで、むしろ励ましていたつもりです。
それでも親を失望させていることを感じとって、劣等感をつのらせていたと、
高校生になった息子から聞きました。

どんなことも同じように受け入れて、何事にも動じない、そんなことは煩悩に
とらわれた私などには無理なことです。たとえそれができたとしても、
こんなふうに育てられた子は社会性を身につけることができるだろうか?
子どもが目の前で人を傷つけようとしたり、傷つけてしまったときも、叱らないのか。
叱られなかった子どもは、かえって愛されてないと感じることはないのか?

考えるほどに疑問がわいてきます。
とはいえ子どもが精神的に不安定で、しっかりとした支えが必要なときに、
親が一喜一憂していて、問題の本質を見過ごしてしまうことはありそうです。
そのせいで、不信感を植えつけられたり、思いがけず深い傷を心に負わせて
しまうといったことが起こりうるでしょう。
親子ばかりでなく、夫婦でも友人同士でも、職場の人間関係でも ありえる
ことかもしれません。

だから思いだしたときには、つぶやいてみるつもです。
ほめない、叱らない
喜ばない、がっかりしない


2009年9月3日木曜日

一喜一憂(2)

昨日の続きです。

ドイツ語ゼミに出かける前に「日経ビジネス オンライン」で、鈴木義幸さんの
「ここで怒るかそれとも笑うか、それって実は自分次第」
というコラムを読んでいました。

『夜と霧』の著者で、ナチスの強制収容所を生き延びたユダヤ人心理学者
ヴィクトール・フランクルの印象的な言葉を引用*したあと、彼はこう述べます。

「つまり、刺激が直接、反応を引き起こすわけではない、とフランクルは
言っているわけです。アウシュビッツという“刺激”も自動的に「苦しい」
「つらい」「悲しい」という“反応”を引き出すわけではなく、刺激と反応の間には
スペースがあり、そのスペースの中で、どのような反応をするのかは全て個人が
選ぶことができる、と。そして、どのような反応を選べるかがまさにその人の
精神的なレベルを表象している、と。」

なんだか胸にストンと落ちる言葉でした。
体がすこしだけ軽くなったような気がしました。
そのあと、この言葉を気にかけていたとか、肝に銘じて自分の反応を選ぼうと
心がけたとか、そんなことはありません。
自然体でいたつもりです。
それでも、ゼミではいつもと気持ちのありようが違っていましたね。
知らない間に効いてくる薬のようなものだったのでしょうか。

*引用文
「刺激と反応の間には、いくばくかの「間」が存在する。私たちは
この「間」の中で、自分の反応を選択する。私たちの成長と自由は、
私たちが選ぶ反応にかかっているのだ」

2009年9月2日水曜日

一喜一憂

昨晩は仕事を抜け出して、神保町の伊東乾先生のドイツ語ゼミへ。
定刻の7時になっても先生が来られず、それはいつもどおりのこととして、
5人の受講生は席についたまま、ひっそりと待つことに。

このゼミは、毎回、初級文法のおさらいをしたあと、旧約聖書と
ヴィトケンシュタインの「論考」を少しずつ読むというスタイル、
というと格好いいですが、実質的にはゼミというより講義ですね。
わかってもわからなくても、さまざまな分野で活躍中の先生から
いろいろな分野の話をうかがえるのが楽しみという会です

テキストの「中級ドイツ語」の自習に余念がないはこのゼミ古参のSさん。
一番前の席で英字新聞を広げている学生さん。「週刊聖書」をめくる合間に
チロルチョコを召し上がっておられる編集者の方。私の列のならびには
気がのらない様子で携帯に文字を打ち込んでいるFさん。

私はテキストもカバンの中の閑つぶし用の新書も開かず、ただぼんやり。
そしてこのぼんやりがなんとも言えない快感で、するすると時間が過ぎていきます。

仕事場にいても、家にいても始終何かをしている、夜中に目が覚めたときでさえ
電気をつけて本を開く、それって強迫神経症みたいなものじゃないの――
なにもしないでいられるというのが、心の自由を得られたような気がして、
満足感がこみあげてきます。

ときどき目をつぶったり、眠くもならないのでまた目を開けたり、
意識がとんだ覚えもないのに気がついたら7時50分。
左の女性が席を立って事務の女性に何かをささやいてから、部屋を出て行きました。
事務の方が申し訳なさそうに「先生に連絡を取ろうとしているのですが……」
残りの4人は、どうぞお気遣いなく、と口には出さずうなずきます。
この平穏さ、静けさが肩のこりや目の疲れまで癒してくれそうで心地よい。
この場には何かの力がはたらいているのでしょうか。

コリ文は気ぜわしい一日でした。
この場で発表してしまいますが、風邪の熱でお休みの朴先生から
「病院へ行ったらオメデタだと言われちゃいました」
という電話がありました。
切迫流産のおそれがあるので、数週間は安静が必要ということで
大至急、代講の先生を手当てすることになりました。
やさしい先生方が、そういうことなら私がやりましょうと、次々に手をあげて
くれたので、こちらは一件落着。
コリ文の先生方はほんとうによい方ばかりです。

8時半になり、すっかり疲れがとれたような気がしたので、帰ることにしました。
靴をはいていると事務の方が、どうぞお詫びのしるしにと伊東先生の新刊
「楽しい騙しのインテリジェンス?」という新書を渡してくださいました。
「楽しく騙されて、頭がすっきりしました」と答えると、3本目のチョコバーを
食べ終えた編集者がハハと笑い声をたてました。

私は元来せっかちなほうで、マンガを読んだり自分で無駄に時間をすごすのは
平気なくせに、人に待たされたりすると、いらいらしがちな人間です。
それなのに昨日は、負け惜しみ抜きで、すこしもいやな気がしませんでした。
そういう「いらいらしない自分」にますます気分がよくなりました。









2009年1月13日火曜日

シュタージ文書の閲覧申請

ドイツ訪問のひと月ほど前に、シュタージ(国家保安省)の報告書の閲覧を申請してみた。申請そのものはむずかしくない。シュタージ文書を管理している役所(BStU)のHPから申請用紙をダウンロードして、必要事項を書き込んでからドイツ大使館で認証してもらい、郵送すればよいだけである。うまくすればベルリンに滞在中に閲覧できるかもしれないという目論みだったが、もっと早く申請しておくべきだったようで、10日ほどで受付けたという手紙が届いたものの、私に関する報告書が現存しているかどうかの通知は、出発までに届かなかった。

通知は帰国後2週間たってから届いた。結論としては、見つからなかったということで、いくらかは期待していたので残念だった。しかし見つからなかったということが、かならずしも報告書が作成されなかったということを意味しているわけではない。壁が崩壊してから、シュタージは全力で機密文書を焼却したりシュレッダーにかけたりしたのでかなりの文書が失われてしまっている。シュレッダーにかけられた紙片の復元も試みられているが、膨大な量なので復元し終わるまでに数百年かかるだろうと言われているほどだ。

特定の容疑者だけでなく、一般の市民の多くもシュタージの監視対象になっていたことが今ではよく知られている。資本主義国からやってきた外国人である我われは、当然対象になっていたはずだ。電話をするたびに混じるかすかな雑音は、日本語で話し始めると途切れてしまうが、ドイツ語だと最後まで聞こえていたし、宿舎の部屋においてあったベルリンの壁を西側から写した写真集は、いつの間にか消えてしまっていた。雇っていた東ドイツ人の運転手は、30代の口ひげをはやしたビール腹の気さくで陽気な男だった。とはいえ私たちを乗せて検問所を越え、西ベルリンと私たちの町を自由に行き来することができる彼が当局の関係者であることは、日本人全員が承知していた。

なかでも私のように頻繁にドイツ人の同僚たちの家を訪問したり、東ドイツ内を気ままに旅して回ったりしていた外国人に、シュタージが関心をもつというのはありうるだと思う。もし「報告書」が存在していて、それを読んでからアイゼンヒュッテンシュタットを訪れ、旧EKOで同僚たちと再会していたとしたら、なつかしくて愉快な一日をすごせただろうか。シュタージの活動があばかれている今となっては、報告者の氏名欄に、もっとも仲がよかった同僚や女友だちの名前が記されていても、驚きはしない。それでも再会した何人かのうちの一人が報告者だったら、お互いにそんなことは知らないふりをしてカフェのテラスでおしゃべりをし、別れぎわには抱き合ってという思い出が、一味ちがったものになったのはまちがいない。

注)BStU=die Bundesbeauftragte fuer die Unterlagen des Staatssicherheitsdienstes der ehemaligen DDR

2008年11月29日土曜日

旧EKO見学中・後編



冷間圧延工場を見学したあと、やはり私たちが建設した電気室、コンピュータ室の建屋に向かった。
コンピュータ室で、またもなつかしい顔に再会。当時は電気工学の大学院生だったアンドレアス・ポロックは研修のためにプラントに派遣されていた。いまでは冷間圧延工場の電気の責任者だという。
数年前の改修にあたっては、制御システムを独力でプログラムを組んで改善したとのこと。


左は取材に来た地元紙の記者ヤネット・ナイザーさん、右は当時契約をまとめる責任者だったクラウス・プフレーギング氏。






電気室の床板のいずれかの裏側に私の落書きが残っているはず。

このあと、どこを見たいかとたずねられたので、新鋭の熱間圧延工場を見せてほしいとたのんだ。
現在このコンビナートの主力である熱間圧延工場まで、車で移動。
ドアをくぐるごとに開錠と施錠をくり返すものものしさだったが、幸いビデオ撮影を許可してもらった。
一番上の動画がそれ。
500mに渡って熱い鋼板が流れていく様は壮観だ。動画はかなり省略して縮めてある。
数人の作業員で操作をしている様子を目にすると、多くの人たちがリストラされてしまったことが
いやでも理解させられた。

2008年11月13日木曜日

旧EKO(現ArcelorMittal Eisenhüttenstadt GmbH)見学中



EKOでの仕事が決まるまで、私は「あつえん」などという言葉を耳にしたこともなかった。なもんで念のために、ちょっくら解説を。冷間圧延は、製品(鋼板)の厚みの調整や、表面の仕上げをする工程だ。「鉄は熱いうちに打て」というが、ここでは冷たい板をそのまま扱う。そのためロールにかける圧力は1cm2あたり2百トンにも達するとか(記憶がおぼつかないので、まちがっているかも)。この圧力調整は油圧でおこなわれている。縦横に油圧配管が張りめぐらされた床下のオイルセラーも見ものだが、今回は時間
の都合でパスするほかなかった。

ちなみに建屋の反対側にあるソ連製のタンデム圧延機は、電動モーターでネジを巻くようにして圧力をかける仕組み。当時も相当古ぼけていたが、こちらも現役と聞いてびっくりした。青いカバーで覆われていて本体を目にすることはできなかった。

写真1.6Hiミルはフードの色が青に変わっている。
写真2.改修後の制御盤(昔よりカッコいい)。
写真3.圧延機の内部(放射能のマークは厚み計が放射線計測をしているから)

20人いた当時のオペレータで、今もこの工場にとどまっているのはベルント・シュナーベル一人だけ。当時から高炉の火は消えたままだったが、製鉄所らしく年中無休の4班3交代勤務だった。どの班も男4、女1の構成で、圧延機の操作にあたるのは男子のみ。女性の職場進出が進んでいる東ドイツにしては、ちょっと不思議な感じがしたものだ。ベルントによると、ほかのオペレータたちは、統一後、ほとんどがこの町を去ってしまったとのこと。みんな若かったから仕方あるまい。親しかったSさんの消息をたずねてみたかったが、二人の関係はだれも知らないはずだからと思いとどまることにした。

2008年11月11日火曜日

EKOあれこれ



再訪した旧EKOの様子をすこしだけ書きとめておきたい。取り壊されてしまったカンティーネ(食堂)のわきから地下道を通って冷間圧延工場へ向かう。

写真1:地下の連絡通路。スローガンのたぐいが消えたせいか、なんだかすっきりしている。



コイルヤードは静まりかえっていた。以前は、コイルを移動させるために天井クレーンがしじゅう動き回っていて、ずいぶん活気があった。猛禽のようにすばやく舞い降りてきて、一本爪のフックをコイルの穴にとおして軽々とさらっていく。けっして停止したりはしない。見事な早わざだった。

(コイルというのは鉄板を巻き取った巨大な「トイレットペーパー」状のもの。もう少しきれいな言い方だと「バウムクーヘン」。直径は人の背が隠れるほどもあり、重量は20トンと軽戦車なみ)

運転手はたいていオバちゃんで、下から手をふると警笛であいさつを返してくれた。冗談のつもりで「運転させて」と頼んだら、「上っておいで」。運転席から眺めると、地上はまるでコイルの畑だった。マークを書きこむ作業員はかくれんぼをしている虫みたい。

「下の連中をピンの代わりにして、コイルでボウリングをしてみたいと思ったことあるでしょ?」

「ないわよ」

「ほんとかな。夫婦げんかした日とか―― 正直に言ってみて」

さすがにコイルを吊らせてはもらえなかったものの、となりのクレーンにぶつからないよう移動させたり、フックを左右に動かしたり、しばらく遊ばせてもらった。

写真2:コイルヤード。以前とは並べ方が異なっている。かつてのようにバンドがはじけてボヨーンとなった錆だらけのコイルは見当たらない。
写真3:圧延機棟の天井クレーン(背後にも1台)とコイル

コイルヤードが薄暗いのは、となりの圧延機棟とのあいだに壁がつくられたせいもある。 壁がオペレータの詰め所の上を横切っているので狭苦しいでっぱりになってしまった。あそこでは閑なおり、ときどき昼寝をさせてもらった。試運転が始まってからは、休憩時間にオペレータたちとコーヒーを飲みながらおしゃべりにふけった思い出の場所だ。

写真4:青い壁で分断されたオペレータ詰め所

着任した日、工事長がみずから現場を案内してくれた。新品の安全帽に安全靴、作業服がくすぐったかった。工場に足を踏み入れると工事長が立ち止まってひと言。
「これだけは言っておく。けっしてケガをするんじゃない」
まだブロックがむきだしで、中もがらんとした詰め所まで来ると、工事長はさらにつけ加えた。
「ケガをするくらいなら、仕事しないで、ここで昼寝でもしていてもらったほうがありがたいんだ」

各部署をまわってあいさつをしている途中、うっかり玉掛け(吊荷)の下を横切ろうとして、さっそく「バカモノ!」と一喝された。なんでそんなに神経質なんだろう? 理由はあとで先輩から教えてもらった。工期を守ることが最優先なのに、人身事故がおきると警察の現場検証や安全対策の確認などで何日も工事が中断される。それをなによりおそれているのだ。

じっさいその後、工事が山場をむかえると、徹夜の突貫工事がつづくようになる。人身事故については、一度だけ不幸な事故がおきて、工事がストップしてしまった。

2008年11月8日土曜日

わたしのアイゼンヒュッテンシュタット



1989年以来この街はすっかり変わってしまったと、だれもが口をそろえて言う。もちろんそのとおりだろう。しかし私の実感としては「変わってないな!」である。泊まるつもりでいたインターホテル「ルーニック」やなつかしいディスコ「アクティビスト」は廃墟になっていた。製鉄所の正門があったあたりには「バーガーキング」が開店している。通りで見かけるのはVWやアウディ、トヨタやホンダ。でもそのほかは見事になにも変わっていない。すくなくとも表面的には。

住居の多くはペンキで化粧をされていくらか若返って見える。そのせいで、かえって時の流れを逆もどしにされたような変な錯覚をおぼえてしまう。
我われと下請けのユーゴスラビア人作業員の宿舎だったAWH3(Arbeiter Wohnheim 3)も外観はそっくりそのままだ。通りの名前もあいかわらずKarl-Marx Str.である。

玄関から通勤着姿の仲間たちがあらわれて「今晩アクティビストつきあってくれる?」などと話しかけられても、きっと不思議な気がしないだろう。
並んでバス停に向かって歩きながら「きょうはマグネットだよ」と答えるは、やはり20代の私のはずだ。ふわりと空気がゆらいで、日差しのなかに酸洗塔からはきだされる錆びのにおいが香った。

「ディズニーランドに行くと俺なんかでも童心にもどっちゃうんだよな」などという言葉を聞いても、ばかばかしいとしか思わなかったが、生活にくたびれはてた中年男が異世界の魔法にとらわれるってことはあるのだ!とわが身で実感。無邪気な話――だろうか。考えすぎかもしれないが、無意識のうちにでも自らが望んでしまえば、どんなドグマでもオカルトでもつけこまれかねない。すぐに悲観的なことと結びつけて考えるのはわるい癖です。

2008年11月7日金曜日

思えば遠くにきたものだ



今年の6月2日に22年ぶりに再訪したアイゼンヒュッテン市で「Die Märkische Oderzeitung」という地元紙の取材を受けた。その記事が今ごろになって届いたので、記念にここに貼り付けておこう。どうでもよいオシャベリをそのまま記事にしてしまうところが、いかにも田舎町の新聞らしくてのどかである。気恥ずかしいが、わざわざ読んでみようという物好きもいないでしょう。

2万人近くもいたコンビナートの従業員も今では3,200人ほどに削減されてしまったとのこと。社名も今ではEKO(Eisenhütten Kombinat Ost)から世界最大の製鉄コンツェルンであるアルセロール・ミタルに変わっている。旧東ドイツ地域の多くの企業が閉鎖されてしまったことを思えば、操業を続けているだけでもよしとしよう。

私たちが建設にたずさわった冷間圧延設備が今でも現役だったのはうれしかった。わずかしか残っていないかつての同僚たちがそろって出迎えてくれたのには感激した。「電源室の床板の裏に、なんて落書きしたんだっけ、お前さん」などと、すっかり忘れていたエピソードが次々にくり出されるのを聞いていると、こんなところに私のことを覚えてくれている人たちがいるということが、なんだか信じられなくて、もう少しで涙ぐんでしまうところだった。